III4527 忿怒形天部像頭部(『報告書』Tafel 13-1, 高23cm)〔図4〕見された。この部屋の中央には中心柱の基台があったという。グリュンヴェーデルは、中心柱形式の寺院(第1期)(注3)が廃棄された後、上層に新たな寺院が建造されたと推測している。上層の中堂G・回廊Aの壁面には仏教壁画が部分的に残存していたが、中堂南壁東側の堆積からマニ教壁画が発見された。ここから、上層は本来マニ教寺院であったのが(第2期)、ある時期に仏教寺院に改修された(第3期)ことがわかる(注4)。中堂Gの床下から刹木(注5)が出土し、仏教寺院造立の発願文がウイグル語で記されていた。近年、その年紀(干支とナクシャトラで表記される)が西暦1008年に相当することが明らかにされ、遺跡第3期の上限が確定した(注6)。瓦礫に埋もれた下層の部屋は、東面のアーチ門Eに通じる。報告書に掲載されるα遺址出土塑像5件は、いずれもこの地点から出土した。また壁面は、金泥で塗られたストゥッコ浮彫や壁画で華やかに飾られていたという。グリュンヴェーデルは、門Eが遺址の東面中央に位置していることから、第3期には何らかの形で上層と連絡し、伽藍の東門として機能していたと推定している。以上を勘案すると、E地点出土塑像群は、上限を1008年とする遺跡第3期に制作されたと見られる(注7)。α遺址出土塑像5件のうち、1件(IB 4529)〔図3〕は第二次世界大戦で失われ(注8)、現存するのは4件である。以下、調査に基づいて、各像の概略を見ていきたい。怒髪をあらわし、瞋目・開口する忿怒形頭部。怒髪は二筋に分かれ、その中央(頭頂)に白色の飾り(?)が見られる。口髭と、二束に分かれた顎髭が軽く渦巻くように表される。面部を型取りし、頭髪・口髭は別製を貼る。芯木が残っており、樹皮をとって丸く加工している。彩色は、肉身は淡い褐色、頭髪・眉・鬚を朱で塗る。眉と口髭は朱とともに、墨線も用いて強調する。瞳は緑で着彩し、頭髪等の朱色と際立ったコントラストを為す。牙上出等の特徴から悪鬼とする説もあるが(注9)、グリュンヴェーデルは本作例と一体をなしていたと見られる胸甲と、上方に挙げた右手の断片を発見しており、四天王像の一体であったと推測している(注10)。誇張した忿怒の形相や、二筋に分かれた怒髪の表現は、中国密教美術、しかもおそらくは明王像を手本としたものであろう。しかし、α遺址において、本来の尊格が意2.α遺址出土塑像の概要― 529 ―― 529 ―
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