3.α遺址出土塑像の尊格についてドイツ隊の報告書以降、以上にみた作例は展示解説で個別に紹介されるにとどまり、従って図像解釈も個別に行われ、安置場所や各像の相関関係は殆ど考慮されてこなかった。そこでまず、4件の塑像相互の関係について考えてみたい。先に見たようにやや大きい天部像頭部2件のうち、III4527は中国仏教美術に由来する忿怒形の図像、III4528はおおむね西域北道美術に由来する表現で、伝来の径路を異にする。またこれら2件と小型の鬼面2件は法量と類型が異なるため、比較が難しい。しかし、それにも関わらず、これらの像には共通の造形感覚がみとめられる。とりわけ眉から眼にかけての造形は、眉の形状や篦の入れ方、両眉頭と両眼の間隔が比較的狭く、鼻根に皴を寄せてできた瘤状を小さく表現する点が一致しており、同じ工房による一具の作と見られよう。次にこれらの塑像の尊格を考察するに当たって、いずれも門Eに由来することに注目したい。III4527とIII4528は背面の現状から壁に一体化していたことがわかり、門左右のいずれかの壁面に設置されていたと推測される。また先述の如く、グリュンヴェーデルはIII4527が着甲像であったというが、門脇の着甲像といえば、守門神がただちに思い起こされる。西域における仏教寺院址の入口はしばしば破損が甚だしいことから類例は限られているものの、カラシャール地域ショルチュク遺跡のK13寺院(注14)と龍王洞(注15)には西ウイグル王国時代の制作と見られる塑造守門神像の痕跡が残る。K13寺院は、α遺址と同様、回字型プランの日干煉瓦積寺院である(注16)。前室から主室に通じる入口両脇の壁沿いに像台を設け、上に中国式の鎧をつけた天王形を安置していたと見られる〔図9〕。龍王洞はクチャ地域に広く見られる礼拝窟と同様のプランをもつ石窟で、やはり主室門外両脇、前室壁沿いの台上に守門神像が安置されていた〔図10〕(注17)。もっとも発見時には邪鬼と、これを踏む沓のみが残存し、像本体は失われていたが、同窟主室で着甲の胴部が発見されており、前室守門神の像容を想像する手がかりを供している。このように、類例からはα遺址出土の天部像頭部2件(III4527・III4528)が門Eを守る護法神像であった可能性が浮かび上がってくる。先述の如く、これらは図像の伝来径路を異にしており、塑像は勿論、絵画作品にも同様の2像を組み合わせた類例は知られていない。ともあれ、西ウイグル仏教美術において、これら2件の像容は護法神の図像として決して不審ではない。III4528については既に述べたので、以下、III4527について検討していきたい。同像は悪鬼ともされてきたが、例えば同じα遺址門E出土で戦災で失われたIB 4529〔図3〕のように、西域北道には「グロテスク・― 531 ―― 531 ―
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