鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
544/643

ヘッド」と通称される更に奇怪な形相の類型があり、こちらの方が悪鬼に相応しい。また牙を出すことに関しては、確かに中国内地の護法神には通常見られない特徴である。しかし、西ウイグル仏教美術の護法神には、中国内地の粉本に忠実な一群と、そうではない一群の二系統があり、後者にはしばしば牙が表される。その一例として、同じα寺院の回廊Aに描かれる誓願図中の執金剛神像が挙げられる〔図11〕。またトルファン・ヤールホト出土綿布幡の裏面の像は、剣を肩にのせる着甲の護法神像で、やはり牙をあらわし、耳も尖った異形に表されている〔図12〕。同じ幡の表面の像が多聞天像に比定されていることから(注18)、裏面の像も四天王の一体であろう(注19)。西ウイグル時代のこのような護法神像の特徴は、先行するクチャ地域の美術において護法神がヤクシャ的性格を保持し、異形に表されることに倣ったのであろう(注20)。以上から、III4527のような図像は、西ウイグル仏教美術においては護法神と読まれ得るものといえよう。像が頭部しか残らず、また門Eに安置されていた像の総数が不明である以上、III4527・III4528については門を守る護法神であると推定するにとどめ、具体的な尊格については不問としたい。残る一群の「グロテスク・ヘッド」(III4525・III4526・IB4529)については、確定的ではないものの、一案として護法神が足下に踏む邪鬼であった可能性を提示したい。むすびにかえて─西域北道塑像における型使用とα遺址出土品西域北道塑像が型を使用して制作されていることはよく知られている。当然のことながら、塑像の形式・様式も型使用の技術と直接連動しており、西域北道における塑像の展開は、型技法の展開によって説明できるといっても過言ではない。しかしながら、従来、この観点からの研究が充分になされてきたとは言い難い。そこで以下に、極めて初歩的ではあるが西域北道における型技法を概観し、その中にα遺址出土像を位置づけることを試みたい。①クチャ、キジル石窟: おそらく8世紀中頃まで、クチャは西域北道における仏教文化の中心地であった。クチャの礼拝窟(堂)では、全体に塑像より壁画で荘厳する面積が大きいが、一部の石窟では塑像を多用する。以下にその代表的な2例を見たい。a、キジル石窟第77窟:大仏窟であり、左右壁に沿って像台を設け、等身大の塑造立像が立ち並んでいた。ドイツ隊が「像窟」と名づけた由縁である。年代はクチャ地域の礼拝窟としては相対的に早い6世紀前半に位置づけられている。同窟由来の天部形頭部III7882〔図13〕、III7917〔図14〕は面部(両耳の上部まで)を型取りし、頭髪・― 532 ―― 532 ―

元のページ  ../index.html#544

このブックを見る