鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴A. Grünwedel, Bericht über archäologische Arbeiten in Idikutschari und Umgebung im Winter 1902-⑻Staatliche Museen zu Berlin, Museum für Indische Kunst, Dokumentation der Verluste, Band III, p. 216.⑼東京国立博物館他『ドイツ・トルファン探検隊 西域美術展』朝日新聞社、1991年、p. 201、られていない。現存する出土品の研究には、多分野の専門家の参加がのぞまれるが、まずは本稿が西域北道仏教美術史上におけるα遺址の意義を喚起するものであれば幸いである。⑵α寺院中堂Gと回廊Aの尊像・壁画構成については下記を参照。拙稿「西域北道における誓願図について」『アジア仏教美術論集 中央アジアⅠガンダーラ~東西トルキスタン』中央公論美術出版、2017年、pp. 446-448。⑺α寺院の塑像の年代について、過去の展示解説等において8-9世紀とされていることが多い。その理由は、本文中で述べたような遺跡の状況が検討されず塑像の様式から年代を判断したこと、しかもその様式年代観がウイグル仏教美術の開始を西ウイグル王国建国以前の東ウイグル王国時代にまで遡らせるという、現在では否定されている古い学説に基づいているためである。門Eの塑像群が果たして上層の1008年の改修と同時であるかは不明であるが、中堂正中の延長線上にあり遺跡の正門に当たると見られることから、1008年から大きく隔たらない時期の制作である可能性が高い。pl. 143。― 534 ―― 534 ―1903, München, 1905, pp. 55-73.⑶グリュンヴェーデルはα遺址の下層(第1期)のプランが、高昌故城B寺院(仏教寺院)の如く、中心堂宇を囲む四隅を方形の塔とする形式であった可能性を提示している。この推測が正しいとすれば、α遺址第1期も仏教寺院であったと考えられる。⑷マニ教寺院から仏教寺院への改修の方法がどのようなものであったのか、グリュンヴェーデルも記述しておらず不明である。しかし少くとも、マニ教壁画の出土地点が仏教寺院の中堂に当たることから、中堂の周壁はマニ教寺院時代に築かれたと考えられる。⑸中国において、刹は本来、塔の造立にあたって塔基表示のためにたてた小木柱を指す(小杉一雄「第二節 六朝および隋代に於ける塔基表示」『中国仏教美術史の研究』新潮社、1980年、pp. 18-35)。α寺院における刹の意義については次を参照。森安孝夫「西ウイグル王国史の根本史料としての棒杭文書」『東西ウイグルと中央ユーラシア』名古屋大学出版会、2015年、pp.678-730。なお、クチャのキジル石窟第118窟には杭を槌で打ち込む僧侶が描かれており、或いは打刹と関連するかもしれない。⑹森安孝夫1980「ウイグルと敦煌」。同「ウイグル=マニ教史の研究」『大阪大学文学部紀要』第31・32合併号、1991年。⑽グリュンヴェーデルは日本の持国天の作例と姿勢が似ることを指摘している。⑾Sérinde, Terre de Bouddha, la Réunion des musées nationaux, 1995. p. 191. 東京国立博物館『ドイツ・トルファン探検隊 西域美術展』1991年、 p. 202、pl. 144。⑿エリカ・フォルテ(福山泰子訳)「コータンのドモコ・トプルクトン第一号寺壁画について─果たして新出の毘沙門天か─」(注⑵前掲書、pp. 455-469。)

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