鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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この石窟はキジル石窟後山区南区に位置するというが、どこを起点に「最後」とするのか、ドイツ隊の報告では窟群の中での位置が明確ではなく、現行編号のどの窟に当たるのか明らかではない。これについては別の機会に考察したい。⒀ T51, no. 2087, p. 873, c23-p. 874, a11.⒁ ロシアのオリデンブルグ隊による呼称。また、スタイン編号のMi XVIIIに相当。⒂ ドイツ隊による呼称。オリデンブルグ隊の第10窟に相当。⒃ N. V. Dyakonova, Shikshin. Materialy Pervo Russko Turkestansko ėkspeditsii akademika S.F. Oldenburga 1909-1910 gg. Moskva, 1995.⒄ op.cit.; A. Grünwedel, Altbuddhistische Kultstätten in Chinesisch-Turkistan, Berlin,1912.⒅ Chhaya Bhattacharya-Haesner, Central Asian Temple Banners in the Turfan Collection of the Museum für Indische Kunst, Berlin: Painted Textiles from the Northern Silk Route, Berlin, 2003, pp. 295-296, fig. 366, 366-1.loc. cit. 同書では持物の剣から広目天とするが、これは広目天に限定された特徴ではない。⒆ ⒇ 中川原育子「クチャ地域のヤクシャ系神像の諸相」(『ヘレニズム~イスラーム考古学研究』第 以下、採寸箇所は塑像の形態・残存状況によって随意に設定している。鼻根の皴を起点に、顎 Albert von. Le Coq, Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien VI, Neue Bildwerke II, Berlin. 1928.23回、pp. 141-159、2016年。までが7cm、左耳つけ根まで(=型取り部分の左端)10cm、同じく右耳つけ根まで9cm。― 535 ―― 535 ―

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