2.2017年度助成①蓮華王院再興造営と鎌倉時代後期の仏師に関する一考察(1)千体千手観音像の作風について研 究 者:鎌倉国宝館 学芸嘱託員 石 井 千 紘はじめに長寛2年(1164)、後白河法皇の御願により平清盛が造営した蓮華王院は、建長元年(1249)3月23日、姉小路室町からの出火によって創建当初の像を156軀残して焼失したという(『一代要記』)。このため、建長3年(1251)には再興造営が開始され、文永3年(1266)4月27日に供養が営まれた。現在、千体千手観音像は創建当初像を124軀、鎌倉時代の補作を876軀、室町時代の像を1軀数え、全1001軀に及ぶ。国家的な大規模造像が減少する傾向にあった鎌倉時代後期において、ほとんど最後にして最大規模の造仏事業であった本再興造営では、当代の主要仏師たちが参集し、その作品に名を残している(注1)。本稿は、再興造営で造立された千体千手観音像を対象とした作風分析により、これに携わった仏師たちが派閥を超えて交流した可能性を指摘するとともに、鎌倉時代後期の僧綱補任制度と僧綱仏師たちの事績についてまとめ、蓮華王院再興造営を経たことが、以後の造仏界にどのような変化をもたらしたかを考察するものである。鎌倉時代に造立された876軀の千体千手観音像は、その造像銘に導かれ、大きく円・院・慶派の三派ごとに分類することができる。大方の見解として、慶派仏師の像は面貌や体躯に立体感や厚みが付され、創建像の形式に基づきながらも積極的に自派の様式を投影したものであるのにたいして、院派の作品には創建像に準拠した守旧的な像が多く、円派の像はちょうど慶派と院派の中間にあり、伝統を保ちながらも慶派作品に認められる写実性を加味したものと理解されている(注2)。しかし、各派のうちにあっても、あるいは同じ仏師の作であっても像によって作風に振り幅があるため、造立に際しては、自作としていても弟子に任せた部分が多くあったものと思われる。また、円派や院派仏師では、一部の仏師が「〇〇分〇〇作/造」と銘文に記し、自作と自分に割り当てられた分とを区別している。「分」は必ず担当仏師の作風に準拠するものとは限らず、実際に造像した「作」、「造」の仏師がその門弟ではない様子も見られた。― 551 ―― 551 ―
元のページ ../index.html#563