鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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(2)鎌倉後期の僧綱仏師無文帯に花形を重ねるもので、院派や円派では例のない、湛慶・康円像に特有の形である。さらに、康円の742号像や949号像〔図9〕と比較すると、頬が強く張る丸顔に切れ長の眼、大きな円弧を描く眉と眼の間を広くとる独特の面貌、裙の折返しを短くつくる点などが酷似している。これについて奥健夫氏は、こうした康円風の像は、無銘も含めて全体で43軀認められ、いずれも膝の前を渡る天衣を下半身と共木で彫出した簡略化した技法で造立されていることを指摘している(注5)。造像銘はいずれも文永2年(1265)と記すことから(注6)、供養目前に不足分を補うため、康円の作品を手本に急ぎ造立させた事情があったかとも推測している。797号像は、まさしくこの一体に違いない。では、朝順は慶派系統かというと、同じく朝順銘をもつ122〔図7〕・197号像〔図8〕は院恵系統の作風を示している。前述した院派内の作風分類上で、院恵と同系統に加えた院承の銘が、197号像の「朝順」銘に併記されている(注7)。ここに記された「院承作」を院承の自作ととることもできるが、院承像全21軀には、他者に造立させた「分」を表記する像はない(注8)。あるいは、朝順が院承統括のもと造立したと捉えれば、朝順は院承派の仏師でありながら、康円担当分をも制作したことになろう。以上、「順」字の名を記す像を見たが、雲順・栄順・快順は院派系統に属す仏師とみられ、覚順は円派系統、朝順は仏師でない可能性も否定しきれないが、やはり院派系統かと思われた。全員ではないが、院派仏師に近い彼らが同時期に「順」字を含む法名で活動していたことは、これを通字とした、ある程度まとまった集団の存在を窺わせる。彼らが院派仏師間でも別系統の作風を跨ぎ、他派の仏師分をも造立していたことは、本再興造営における工房間、仏師間の交流の具体例といえるのではないだろうか(注9)。さて、栄順や快順といった、「円」・「院」・「慶」のような、いかにも三派仏師らしい法名ではない仏師が蓮華王院再興造営でいくつかの仏像の造立を任されていたことを確認した。彼らが一つの工房に所属していたか、「順」字が通字となっていたかは不明だが、他の造像銘記中の僧綱仏師に、こうした名が現れているかどうかが注目される。結論からいえば、前述した「順」字の仏師たちを確認することはできなかった。明俊や計信など、他の千体千手観音像の銘文に見られる名も同様である。筆者はかつて、鎌倉時代前期までの僧綱補任において、僧綱仏師となる条件は、その法名に三派仏師― 553 ―― 553 ―

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