(3)僧綱補任制度の変質についての通字が入っており、かつその作風も中央で学んだ正統なものであること、と推測した(注10)。これに当てはめれば、「順」字の仏師たちは、中央の正統な仏師とともに造仏に参加する資格を持ちながら、その名が示すとおり、三派正系仏師ではなかったために僧綱位の対象とはならなかったとみることができる。蓮華王院供養直後の状況がそうであったとして、供養以後にもこの原則は破られなかったのだろうか。〔表1〕は蓮華王院供養以後の僧綱仏師を一覧にしたものであるが、まず一目でその員数が非常に多いことに気が付く。便宜上、文永3年(1266)4月の蓮華王院供養以降を鎌倉時代後期としたとき、延べ人数で法橋位は51名(「佐法橋」を含む)、法眼19名、法印12名を数える(注11)。法印・法眼位の仏師は前期までと同様、まさしく正統な三派仏師らしい通字の名が並ぶ。また、彼らの作風も中央で修練した仏師のものとみて問題ない出来栄えで、法印・法眼に関しては鎌倉時代前期と同じく技術水準は保たれていることが確認できた。一方、最も補任者数の多い法橋位の仏師は、法名から素直に所属へ結び付けられないものや、これまでに比べて技術的に見劣りするものが現れている。まず、法名に注目すると、多くは三派仏師の通字か、あるいはそれらと音通の漢字を用いている。「定」や「賢」を用いる仏師がやや目立つものの、各造像銘で肩書に国名をもつ仏師は慶派仏師に分類できそうである(注12)。鎌倉時代前期よりも三派仏師の通字と見なされる漢字は種類を増やし、最末期には「竹有」のように、どの系譜に分類すべきか判断し難い名も現れ始めていた(注13)。また、作品から判断される法橋位の造像技量のほどは、〔表1〕16静岡・かんなみ仏の里美術館の十二神将像を造立した法橋誠□や、22大分・吉祥寺大威徳明王を造立した覚昭、40山形・本山慈恩寺弥勒菩薩像ほかを造立した寛慶などを見ると、素朴なものや癖のある作風の仏師が現れており、僧綱補任の裾野が広がったことと引きかえに、造像技量の水準が低下した様子が認められる。ここには僧綱補任制度の変質があったはずである。鎌倉時代前期については、正治2年(1200)頃を境に、それまでの僧綱補任の方法として一般的であった堂塔供養の際に行われる勧賞だけでなく、朝議で功人を披露・決定する僧事における補任が確認され始めた(以後、前者を「勧賞補任」、後者を「僧事補任」と称する)。勧賞補任には、院や天皇、摂関家に関わる大規模造像に大仏師として参加する必要があったが、この頃には造像の機会そのものが減少したことにより、小規模な造仏や仏像の修理といった内容でも、やはり朝廷に関わることであれば― 554 ―― 554 ―
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