補任理由となり、僧事補任の対象となっていた(注14)。つまり、蓮華王院再興造営は仏師たちにとって僧事補任の絶好の機会であったはずである。事実、院恵分を数軀造立した定承と思しき人物が、正嘉元年(1257)8月11日の僧事で御仏功により法眼位に昇っている(注15)。記録に残っていないだけで、この期間に僧綱仏師となった者が他にもいたのではないだろうか(注16)。残された記録で見る限り、鎌倉時代後期では、仏師に対して勧賞が授与された例はわずか2件のみであった。文永7年(1270)、御嵯峨院宸筆御八講では、法印昌円が本尊を制作したことにより、弟子の法橋倫円が法眼に叙された(『文永七年宸筆御八講記』)(注17)。弘安7年(1284)11月28日の長講堂供養では、仏師賞として法眼院春が法印に昇任している(『勘仲記』)。いずれも円派と院派の正統な仏師たちが造像をおこなった点で、鎌倉時代前期の僧綱補任の条件に合致しているが、上記の宸筆御八講では、昌円が造立したのは五尺の金銅六重塔と、その中に安置する三寸六分の金銅釈迦多宝仏像である。鎌倉時代前期の場合、一時的な需要に応える小さな像の制作は僧事補任の対象であった(注18)。また、僧事が主たる僧綱補任の舞台となっていった背景には、勧賞授与の条件に満たない造仏功に対する救済措置という側面があったと思われるが、ここでは、本来僧事に該当するはずの比較的重要度の低い造仏功に対して勧賞が授与されている。僧綱位の昇任を望んだ時、新規の造仏のない状況では、これまでどおりの勧賞補任の要件は三派仏師であっても満たせなかっただろう。そのため、この頃にはもはや規模の大きさによらず、国家的仏事のための造仏依頼を受けられる家格の高い仏師が勧賞の対象となり得たものと推測される。次に、僧事での補任者と補任理由は公家日記等に記される「聞書」によって知ることができる。ここには一般僧侶と仏師が区別なく列記され、各人の名の下に補任理由が記されるが、単純に「功」とのみ記す場合もあるため、補任者が仏師であるか判断し難い。『経俊卿記』正嘉元年(1257)8月11日条の僧事聞書では、「蓮華王院御仏功」、「御仏功」などと記されることで、辛うじて補任者が仏師であると推測できたが、管見では、これ以後の僧事聞書から仏師と断定できる補任者は見つからなかった。さらに、補任者の多さから、法橋位の者は一部を除いて省略されることすらあり、文字通り、書ききれないほどの補任者がいることもあったようである(注19)。〔表1〕で見たとおり、法橋位の仏師は前期に比べてかなり増加している。僧事自体は前代から引き続き朝官除目と併せて行われており、臨時の僧事も頻繁に確認できる。補任の機会が多くあったことは、仏師たちにとって歓迎すべきことであったかもしれないが、彼らの補任の事実や補任理由は、もはや書き留めるに値しないものとなっていたのであ― 555 ―― 555 ―
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