注⑴丸尾彰三郎編『蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書』妙法院、1957年。水野敬三郎編『日ろう。おわりに蓮華王院再興造像において、参加仏師が落慶供養を待たずに僧事を介して僧綱位を得たことは、一つの造営事業として異例のことであった。この造営を経て、僧綱補任に新たな先例が生まれ、そして、中央における造仏需要の低下が造仏界を大きく変容させたものと解される。僧綱補任は、朝議にて補任者が決定される性質上、その造仏功は朝廷関係の造仏であるべきであったが、わずかにあった新規の造仏や既存の仏像の修復にあたることができたのは、前代から朝廷との結びつきが強かった三派仏師のうち、特に家格の高い仏師のみであっただろう。三派仏師のうちにあってもここに選ばれなかった者や傍系仏師が僧綱位の獲得を目指し、何らかの造仏功を立てようとしたとき、これまで以上に重視した場所こそ、鎌倉幕府ではなかったか。幕府の権威拡大に比例して、造仏界においても幕府との繋がりが重要視されたのはごく自然な流れである(注20)。1250年代に鎌倉へ進出した真言律宗や、この地に根付いた禅宗は、新たな寺院の建立に際して仏師の需要を生んだ。鎌倉時代後期の仏師動向への理解をさらに深めるために、地方へ活動範囲を広げた仏師動向の解明を今後の課題としたい。本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代造像銘記篇』第8巻、中央公論美術出版、2010年。⑵千体千手観音像の作風分類について言及する主な先行研究は注⑴のほか以下の通り。毛利久「蓮華王院本堂の彫刻」赤松俊秀監修『三十三間堂』三十三間堂奉賛会、1961年(『日本仏像史研究』所収、法蔵館、1980年)。毛利久「三十三間堂の彫刻─草創と再興─」『三十三間堂と洛中・東山の古寺』〈『日本古寺美術全集』25〉集英社、1981年。山本勉「蓮華王院本堂千体千手観音像にみる三派仏師の作風─40・493・504号像を中心に─」『MUSEUM』543、1996年。奥健夫「千体千手観音像の造立について」『千体仏国宝指定記念 無畏』便利堂、2018年。⑶快順について、文永4年(1267)の造像銘をもつ福岡・宝典寺阿弥陀如来像が作者を「くわいしゅ(んカ)」と記すことから、これが48号像の作者快順に当たる可能性が指摘されている。菊竹淳一「宝典寺蔵文永四年銘木造阿弥陀如来像」『大和文化研究』98、1966年。⑷丸尾彰三郎氏は①創建像を模索した院継・院遍・院審、②小作りで単調と評される院承・院恵・院瑜、③創建像を模すが、院継・院遍像ほど厳密でない院豪、④古様だが他とは異なる院賀、と分類し(前掲注⑴報告書)、毛利久氏は大きく2グループに分類し、①創建像を意識的に模した院継・院審・院遍ら、②形式化した中にも写実が認められる院承・院恵・院瑜・院豪・院賀・院有・院海・院祚・院玄、に分ける(前掲注⑵解説)。さらに、山本勉氏は、院承・― 556 ―― 556 ―
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