歳四月廿七日(花押)」と記⑸ 前掲注⑵奥解説。⑹ 前掲注⑴水野編著書解説によれば、康円作の造像銘は「文永二年丙寅⑺ 前掲注⑴丸尾報告書は、朝順や栄順らを像の漆箔に携わった工人と推測している。また、注⑴⑻ 院承の造像銘で「分」は確認されず、「近衛殿御結縁分法印院承作」のような結縁銘か、ただ⑼ 逆に、院派仏師の院瑜が慶派仏師の行快分を造立した例もある。375号像の作風は院恵系統であり、「分」の像は、必ずしも担当仏師の作風に準拠して造られるものではない可能性がある。なお、前掲注⑴水野編著書所収山本解説では、行快は湛慶ら慶派仏師の一員として本造営に参加していないと推測しているが、前掲注⑵奥解説では、無銘の作品の中に行快風の像が14軀確認されることから、行快にも一定の割り当てがあったものとみている。⑽ 拙稿「鎌倉時代前期の僧綱仏師について─仏師善慶の僧綱補任を中心に─」『佛教藝術』339、⑾ 前掲注⑽拙稿〔表1〕参照。鎌倉時代前期の僧綱仏師一覧表では、補任者すべてを数えても延⑿ 国名を肩書とする仏師は慶派に多く、14世紀に入るとわずかに院派仏師でも見られるようになることが知られる。清水真澄「院派仏師の作例と活動」横浜市歴史博物館特別展図録『中世の世界に誘う「仏像」─院派仏師の系譜と造像─』1995年。⒀ 〔表1〕57滋賀・洞覚院釈迦如来像は、造像銘に「仏所立佐法橋竹有」と記す。「佐法橋」を肩書とすれば、『建保度長谷寺再建記録』において、快慶の小仏師であった行快と同じ肩書である。三宅久雄氏は、これを「大仏師を補佐する立場を示すもの」と推測しているが、竹有の場合は本人が大仏師であるため、同じ解釈はできない。三宅久雄「仏師行快の事蹟」『美術研究』336、1986年、42頁。⒁ 前掲注⑿拙稿。⒂ 『経俊卿記』明治書院、1970年。⒃ 正嘉元年(1257)8月11日の僧事で仏師の可能性がある補任者は他に、院雅(賀カ)、成朝、聖⒄ 杉崎貴英氏は、このときの勧賞は、昌円が倫円に譲ったものではなく、倫円に直接勧賞が下されたものであり、これまでの勧賞譲与の形式が顧みられなくなったことは、僧綱位自体の価値の変化を示すものと指摘している。杉崎貴英「勧賞譲与による仏師の僧綱位叙位をめぐって」笠井昌昭編『文化史学の挑戦』所収、思文閣出版、2005年。⒅ 正治2年(1200)11月1日の僧事では、修明門院御産七仏薬師造進功によって法眼院実が法印⒆ 成功の任料は弘安10年(1287)5月11日の時点で、法眼千五百疋、法橋千疋と定まっていた(『勘仲記』)。鎌倉時代前期の嘉禎4年(1238)8月12日には、「法眼二万疋、或万疋 法橋一万疋、或五千疋」(『鎌倉遺文』5296)であったため、大幅に減額したことが分かる。一般僧侶の例であり、仏師は基本的に造仏を功に代えていたと思われるが、僧綱位の価値そのものが低下していた事院恵・院豪作は、院継・院玄の作に比べて萎縮していると分析している(前掲注⑴水野編著書内解説及び山本勉「鎌倉時代彫刻史と院派仏師─前・中期を中心に─」『佛教藝術』228、1996年)。すが、丙寅は3年のことで落慶供養が4月27日のため、これらは文永3年の誤記である。水野編著書では、朝順が漆工である可能性を示している。「院承作」とするものが確認されている。2015年。べ55名であった。慶がいる(『経俊卿記』同日条)。位に昇っている(『明月記』、『門葉記』)。― 557 ―― 557 ―
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