鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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まず、治承・寿永年間(1177-85)の秀歌撰である『三十六人歌合』の序文(注8)には、苔のしとねに寄居てかたらふやう、おきなこそちか比やまと哥たくみおはする僧俗三十六人をかたらひ出て、その人々にとりてすぐれる言の葉を十づつ書きつらねて侍れ。兼て又、さなけ多人たちなれば、其姿をうつして、世の末までのかたみとどめむ事を思侍也。三十六人に限れる事は、公任卿の跡をまなびて、三十六句にかたどる。三百六十首をえらべるこころざしは、貫之の主の新撰を思ひて、三百六十日をあらわす也。(傍線筆者)とあり、和歌を記し、歌仙の姿を描くことについては、後代の歌人のよすがにしたいという意識が読み取れ、三十六人三百六十首に限ったことについては、藤原公任『三十六人撰』や紀貫之の趣を襲ったことを表明している。治承・寿永の歌人達は古代の歌人を尊崇しており、自身の和歌と姿を記し、描くことで、後代の歌人の手本になりたいと望んでいると読み取れないだろうか。ここには、万葉集以来の和歌文化の連続性が意識されていよう。この原本は残らないが、鎌倉時代の写本が知られ、その図様には顔貌に瞳を片方に寄せた表情が見て取れ、原本が既に個人の特定を目的とした似絵風の表現であったことを想像させる〔図4〕。上賀茂社神主であった賀茂重保の歌集である『月詣和歌集』には徳大寺実定と賀茂重保との贈答の和歌が残っており(注9)、賀茂重保かたうの障子に歌よみのかたをかきて、おのおのよみたるを色紙型に書けるをかきてたへ申たりけれは、時の歌よみともを書なれば、我身も入るたるらんなと侍りければ、位高き御すがたはびんなければはばかりてかかぬよし申したりければ、色紙型にかきてたまはすとてわかの浦のなみのかすにはもれにけりかくかひもなきもしほ草哉 かへしわかの浦なみなみならぬもしほ草かきあつむるにいかかもらさん かくて後、かのすがたもかきそへ侍りけるとなん(傍線筆者)賀茂重保の堂の障子に、和歌を記した色紙形とともに、実在の歌人の姿を描いた事が確認できる。当初賀茂重保が位の高い徳大寺実定を描くことを憚ったことから、やは― 45 ―― 45 ―内大臣重保

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