鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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のぼり、次いでオランダ領東インド文化サークルの首領ともいえる建築家モーイエン(P.A.J. Moojen)が304点で続く。さらには100点前後の3人の画家(H.N. Sieburgh、Abraham Salm、J.C. Poortenaar)も目立つが、彼らはみなオランダ人である。またこのリストには入っていないが、このほか有名無名の数多くの外国人芸術家がオランダ領東インドを訪れている(注4)。一方、インドネシア側はというと、作品点数は多くてもひとり30点程度しかない。最も多いのは、19世紀のインドネシア美術史上でただひとり突出した国際的評価を獲得したラデン・サレー(Raden Saleh)で、オランダ国立世界文化博物館以外にも多くの作品が所蔵されていることがわかっている。あるいは時代は少し下るが、20世紀前半に活躍したバリ島出身のレンパッド(I Gusti Nyoman Lempad)や、通俗的な風景画および精緻な写生画で知られたマス・ピルンガディ(Mas Pirngadie)の作品は、インドネシア在住の外国人を通じて流通し、彼らの名を広めた(注5)。ところが、こうした画家とは対照的に、19世紀に活動した2人のインドネシア人については生没年が不明であるし、残存作品もほとんどない。クスマ・ディ・ブラタ(Raden Koesoema di Brata)は、ラデン・サレーの数少ない教え子のひとりで、1872年以降の一時期をサレーと過ごし、その後バンドンの師範学校で絵画を教えたといわれる。熱帯博物館にはジャワの高官を描いた1879年と1888年の肖像画2点が所蔵されているが、それ以外の作品は残されていない。もう一方のティルト(Tirto)については、現地でも調査したが、スラバヤ近くのグレシックという町に住んでいたこと、そして2点の興味深い水彩画を1890-1900年頃に制作したこと以外、何も知られていない〔図1〕。ただ人物の描写方法や支持体の寸法からは、作者がジャワの伝統絵画「ワヤン・ベベル(Wayan Beber)」の描き手だったことがうかがえる。またもう一人、ジャワ独自の絵画形式に連なる者として着目したいのが、画家・彫刻家・演奏家として活動したシティシワン(Sitisiwan)である。所蔵品は熱帯博物館に1点〔図2〕しかないが、オランダ領下の政治的な状況を視覚化した点で、ティルト同様、貴重な作例だといえる(注6)。このように植民地経営の延長線上に設立された熱帯博物館や民族学博物館からは、インドネシア近代美術作品への純粋な収集熱はあまり感じられない。たとえば20世紀半ばに活躍した巨匠スジョヨノ(S. Sudjojono)の作品が1点も所蔵されていないことは、それを端的に表している(注7)。それゆえ両者の文化交流については、外国人画家による豊富な作例や関連資料を通して、その影響関係を補完的に見ていく必要がある。― 562 ―― 562 ―

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