(3)近代インドネシアにおける歴史表現らの外国人画家と、それを引き継ぐラデン・サレーやマス・ピルンガディというジャワ人画家との関係性が見えてくるからである(注8)。しかしこの風景画にしても、風俗画同様、ヨーロッパから未開のインドネシアをまなざすというオリエンタリズム的優越性のうえに生成されていることは見逃せない。ここで改めてラデン・サレーとの関係について考えてみたい。上述したように、1820年から1825年までの間、ペヨンはサレー少年の絵画教師のような存在だった。民族学博物館にはペヨンの描いた150点もの風俗写生が所蔵されているが、サレーにもこれと非常に似通った12点の水彩画が残されている。これらの作品からは、サレーの技術的な確かさとともに、ペヨンの指導を受けて絵画修行に励んだことがうかがえる。その後、ペヨンはベルギーに帰国することになるが、1829年になるとサレーも独りヨーロッパに渡り、ジャワやアラブを舞台にしたエキゾチックな絵画を量産していく。なかでも獰猛な野生の虎というイメージは、「野蛮なアジア」を表象する完璧なモチーフとして、サレーの代名詞にもなった。この点について、ペヨンの影響はあまり認められない。確かにペヨンにも動物を描いた10点の習作があるが、魚4点、牛2点、虎1点、山羊1点、猿1点、ムササビ1点という内容で、虎に特別な意味を見出しているわけではなかった。しかし作品の背景描写に着目してみると、ペヨンとサレーの二人には、牧歌的ともいえる優美な自然描写が共通していることがわかる。こうしたある種のノスタルジーを感じさせる表現方法や嗜好性こそ、ペヨンが与えた最大の絵画的影響だったのではないだろうか。民族学博物館所蔵のペヨンの作品には、ジャワの古代遺跡や遺物を描いた風景画や習作も数多く残されている。たとえば仏教遺跡のボロブドゥールなどは、その典型的なモチーフだった。オランダ領東インドに滞在した外国人画家のなかには、ペヨンのように、いやそれ以上の強い関心をインドネシアの歴史に向ける者たちがいた。たとえば1836-1842年に滞在したオランダ人画家のシービュルフ(H.N. Sieburgh)は、油彩など96点が民族学博物館に所蔵されているが、どれもジャワの遺跡に関するものである。また1850年代以降になると欧米各都市で国際博覧会が開催されるようになるが、1931年のパリ国際植民地博覧会では、ヘンドリック・パウリデス(Hendrik Paulides)とチャールズ・セイヤース(Charles Sayers)という2人のオランダ人画家が、インドネシアの歴史を壁画にしている。その内容はきわめて対照的で、パウリデスはインドネシアがオランダ人によって発見され近代化していく過程を、セイヤース― 564 ―― 564 ―
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