鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
577/643

はジャワやバリ本来の土着文化や歴史を、それぞれ絵画化している(注9)。こうした題材の選定についてはモーイエンらが提案したようだが、博覧会という国際舞台において、インドネシアの悠久の歴史や近代化への歩みが、外国人芸術家たちによって都合よく表象されていたことがわかる(注10)。こうした時代に登場したのが、プルザキ(インドネシア画家連盟/PERSAGI)だった。1938年、中心メンバーだったスジョヨノは外国人向けに理想化された風景画ムーイ・インディを痛烈に批判し、新しいインドネシア美術の誕生を高らかに宣言した。しかし、絵画というメディアを通して植民地主義に抵抗してみせたのは、プルサギが最初ではなかった。もっとも早い作例だと言われているのは、ラデン・サレーが1857年に描いた《ディポヌゴロの捕縛》〔図3〕である。また大衆的な絵画領域においても、歴史的な事件や同時代の出来事が表現された。たとえばシティシワンによる1920年頃の作品〔図2〕には、中部ジャワを統治したオランダ人たちや裁判の様子が活写されている。おそらくは地域の催事などでお披露目するために制作されたもので、同作家の類似作品にはまるでワヤンに登場する悪者のように、オランダ人たちの恐ろしい姿が描写されている。また1890-90年頃に描かれたティルトの作品〔図1〕でも、オランダ東インド会社の司令官が強面の大男として登場する。一見すると素朴でユーモラスな描写に映るが、作品は1686年の歴史的事件を扱ったもので、バリの盗賊であるスラパティが司令官のフランソワ・タックを暗殺するという過激な内容である。現地調査ではティルトの足跡はつかめなかったが、この地方に伝わる民俗画のなかには、主人公が敵と戦う類似した作例があることがわかった。これらの作品についてはまだ不明な点も多いが、西洋的な美術作品ではない大衆的な絵画メディアだからこそ、インドネシア人たちの対オランダ感情がより自然に、より自由に、描き出されていることが推測できた。最後に、ラデン・サレーの《ディポヌゴロの捕縛》に目を向けたい。なぜならこの作品は、インドネシアの国内外でこれまでに様々な形で言及されてきたからだ。作品は1825年にジャワ戦争を主導したスルタン家の王子ディポヌゴロが、その後オランダ領東インド政府に捕らえられた場面を絵画化している。画面左中央の白い服の男がディポヌゴロで、その右隣が副総督のデコックである。おそらくこの作品の最も支持されている解釈は、ディポヌゴロという英雄を通して、サレーがジャワ人の不屈の精神を「密か」に表明したというものだ。それは西洋の芸術文化に惹かれ、まるで西洋人のように絵画を描いたと思っていたサレーが、実はインドネシアへの愛国心をもった正真正銘の国民画家として評価されうる解釈である。ドイツ人美術史家のヴェル― 565 ―― 565 ―

元のページ  ../index.html#577

このブックを見る