鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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り描かれた形から実定と特定できる表現がなされたのだと考えられる。これら二つの史料から12世紀後半の歌人は自身の姿形を留めることに対し、九条兼実の日記『玉葉』承安3年の最勝光院障子絵の記事に示されるような強い忌避感(注10)は覚えなかったことが読み取れる。さて、治承の三十六人歌合歌人の一人である六条清輔は承安2年(1172)に白河の宝荘厳院で「和歌尚歯会」を執り行った。『暮春白河尚歯会和歌并序』や『月詣和歌集』によってこの和歌尚歯会の実態がうかがえるほか、後世制作された「尚歯会絵巻」の後半に清輔主催の尚歯会の様子が絵画化されている(注11)。また、『月詣和歌集』所収の祝部成仲の和歌で知られるように、養和2年(1182)には賀茂重保が尚歯会を修めている。尚歯会とは、もとは中国唐時代に白楽天によって創始された、長寿を祝う儀礼であり、日本には9世紀に伝わっていた。唐代そして宋代にも白楽天の催した会を描いた障子が描かれ、日本に輸入されたことが指摘され、先掲した伊藤氏の論では、この儀礼が「似絵」の創始と深く関係する可能性が論じられている(注12)。これを踏まえると清輔と重保の尚歯会に際して、老歌仙の肖像が制作された可能性がある。国文学の研究では徳大寺実定や六条清輔、藤原隆信や賀茂重保の家集が精査され、これらの歌人達は俊恵法師の白河の邸宅に寄り合い、和歌を詠み合っていたことが実証されている。また、この俊恵法師主催の和歌を詠み合う場である「歌林苑」を引き継ぐ形で、重保主催の賀茂社和歌圏が形成されたことも知られる(注13)。治承の『三十六人歌合』という秀歌撰の編纂事業、和歌尚歯会の開催、そしてこれらにあたって歌仙絵が描かれたことすべてに「歌林苑歌人」が重要な役割を果たしたと考えられる。ところで、後白河院時代には、院・天皇の権力のもとで公的行事を記録した絵画が制作された。承安3年(1173)には建春門院平滋子の発願による最勝光院の障子絵に、常磐源二光長と藤原隆信の協力で実際に行われた御幸の様子が描かれた(注14)。また、現在模本のみで知られる「承安五節絵」は、後白河院が企画した承安元年の五節行事を似絵技法を用いて描いた絵巻と言われる(注15)。これらの絵画は公的な性格を帯びており、ここに用いられた「似絵」表現は公的行事を表現するのに相応しい、社会的なものであったと考えられる(注16)。ここまで史料を読解し、時代状況を確認したことで、「治承三十六人歌合絵」や賀茂重保による歌仙絵の位置がより明確になったと考える。すなわち、治承・寿永年間の歌仙絵は、後白河院の企図した絵画と比較して、政治秩序とは別の貴賤緇素問わな― 46 ―― 46 ―

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