②江戸時代の洋風画における秋田蘭画の再検討研 究 者:サントリー美術館 学芸員 内 田 洸江戸時代半ばの安永年間(1772~1781)を中心に、秋田藩士の小田野直武(1749~1780)や秋田藩主佐竹曙山(1748~1785)らによって、南蘋派などの東洋絵画を基本に西洋画法の遠近法や陰影法を取り入れた実験的な作品が描かれた。直武・曙山のほか、角館城代佐竹義躬(1749~1800)や秋田藩士田代忠国(1757~1830)らの作品も含め、現在「秋田蘭画」と呼ばれる彼らの作品群は、江戸時代の洋風画のさきがけと評価される。日本画家平福百穗(1877~1933)による昭和5年(1930)『日本洋画の曙光』(岩波書店)、平成元年(1989)武塙林太郎編『画集 秋田蘭画』(秋田魁新報)などをはじめ、美術史学、博物学、洋学、比較文化学など幅広いジャンルで研究が進められてきた。これまでの研究によって直武・曙山ら秋田蘭画の描き手に関する略伝や個々の作品について解析が進められてきたが、現存作例や同時代の文献資料に限りもあり、残されている課題は決して少なくはない。例えば、直武がどのように洋画法を学んだのか、いかなる背景から秋田蘭画を制作したのか、また、直武や曙山の早世により画派として大いに広まることのなかった秋田蘭画が同世代や次世代に継承されたのか否か、当時および後世にいかに受容されたのか、といった事柄は謎に包まれている。秋田蘭画をめぐる事柄について、十全には解明されていないとはいえ、近年においては様々なアプローチで研究が進められており、事実関係の再検証や文化史的背景について新たな光があてられている(注1)。本稿は、先行研究をふまえながら、直武の初期の画業や直武の印章、直武と曙山の関係に関して述べ、秋田蘭画の実像を再検証する一助になればと考える。1、小田野直武の初期絵画学習小田野直武は、寛延2年(1749)秋田藩角館城代の槍術指南役であった小田野直賢の第四子として生まれ、幼名を長治、字は子有、通称武助とよばれた。角館は秋田藩を治めた佐竹家一門の佐竹北家が統治した地で、直武は「角館給人・佐竹北家組下」という身分であった。直武は、幼少の頃から画才を示したといわれ、署名はないが、直武の筆と伝わる「神農図」(個人蔵)には、「五月十五日 十二歳画之」と墨書がある。直武の数え年12歳は宝暦10年(1760)にあたる。直武の画業初期の代表作としては、明和2年(1765)の「大威徳明王像図」(秋田・― 571 ―― 571 ―
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