鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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大威徳神社)や明和3年(1766)の「花下美人図」(秋田・角館總鎮守 神明社)が知られる。両図の詳細はこれまでの研究に詳しいが、「大威徳明王像図」は、角館町園田の大威徳神社に奉納された絵馬であり、画面左下に「小田野氏源直武謹拝書」の署名と「蘭慶堂」の朱文方印、裏に明和二年三月の年記があり、直武17歳の作である。「花下美人図」は、石川豊信や鈴木春信といった江戸の浮世絵師の作例に基づくものとされる美人図で、画面左上に「奉納 明和三戌六月廿一日」と墨書があり、右下に「源直武筆」と署名し、判読不能の朱文方印と「蘭慶堂」の朱文方印を捺し、裏面に「武田円碩師弟 蘭慶堂直武生年拾八画」と墨書される。直武18歳の作となり、武田円碩を師としていたことがわかるが、武田円碩は、狩野派の秋田藩の御用絵師とされる。先行研究では、武田円碩の他、安永年間頃の秋田藩御用絵師として渡辺洞昌・渡辺元昌・菅原洞旭の名があげられ、直武以前に佐竹北家に仕える角館給人が渡辺洞昌に弟子入りしていることが報告されている(注2)。後に直武が描いた蘭画をみても、狩野派の筆法が作品の基礎となっているのは確かである。広く知られるように、狩野派は江戸時代初期に狩野探幽が幕府の御用絵師となってから代々御用絵師をつとめ、幕府に直属した奥絵師四家を中心に最大時十四家あった表絵師とともに幕府の公的な画事を担当した。これにあわせて全国の諸藩の大名も御抱絵師を狩野派に学ばせたため、各藩に狩野派の御用絵師が現れることとなり、全国的な狩野派のネットワークが生まれ、奥絵師をトップとするヒエラルキーができあがっていた。秋田藩でも狩野派が御抱絵師として活躍しており、『古画備考』のうち狩野門人譜には、秋田藩の御抱絵師として狩野興信の名があがる(注3)。狩野興信(生没年不詳)は、二代秋田藩主佐竹義隆(1609~1672)の御抱絵師で、秋田狩野派の祖といわれる狩野定信(生没年不詳)の妻の弟で、後に定信の養子になった(注4)。狩野定信は承応年間(1652~1655)に家老の推薦によって佐竹義隆の御抱絵師になった人物で、秋田藩では狩野定信からはじまる秋田狩野(久保田狩野)や津村狩野、武田狩野などによって藩主や城主・城代の画事を担当していった。秋田藩主の菩提寺・天徳寺(現・秋田市)には歴代藩主の肖像画が伝わっており、このような作品は狩野派の御抱絵師が制作したものと考えられている。直武の師である武田円碩は、武田狩野の系譜の人物であるが、遺品は数少なく、経歴は詳らかではない。角館の一介の武士であった直武が秋田本藩の御抱絵師に弟子入りしたことの経緯も明らかではないが、「滝図・山水図」(個人蔵)〔図1〕、「神将図・黄初平図」(個人蔵)〔図2〕のような直武の初期作と考えられる粉本がいくつか現存しており、これらからは確かに狩野派の筆法を忠実に学んでいたことがうかがえる。― 572 ―― 572 ―

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