鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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「滝図・山水図」〔図1〕は、もとは4枚1組と考えられ、現在1枚を欠損している。一方に狩野探幽(1602~1674)の滝図の写しが描かれており、画面左に墨書「探幽法印行年六十九歳筆」と朱色の筆による瓢印「守信」が確認でき、画面右に「源直武写之」と書かれている。もう一方の面には、山水図と唐人物図が描かれる。画面右に「明和三丙戌歳八月十五日直武写之」と墨書があり、直武18歳の明和3年(1766)8月の作である。前述の「花下美人図」が明和3年6月制作のため、そのおよそ2ヵ月後に描いたことになる。「神将図・黄初平図」〔図2〕は、一方に神将が鬼を追う図を描き、もう一方に黄初平図の写しを描く。神将図には「明和三丙戌歳蘭慶堂直武写之」とあり、「滝図・山水図」〔図1〕と同年の筆とわかり、蘭慶堂の号が用いられている。蘭慶堂の号は、現存作例では「大威徳明王像図」や「花下美人図」に確認でき、蘭画には用いられていないため、江戸に出る前の初期に用いていたもののようだ。黄初平図には「古信筆」とあるが、これは狩野栄川古信(1696~1731)か。この他、直武の狩野派学習を示すものとして、玉川の署名がある「松に鷹図」(個人蔵)や秋田県立近代美術館本の「写生帖」に含まれる「猿をとらえる鷹図」などが知られる。平福百穗『日本洋画の曙光』(P14)には、「小田野家の長持の中に直武や長子直林の画稿及び模写などの一束がある。その中に直武江戸出府以前に模写せる常信、一蝶、春信等の粉本がある。一蝶の「鍾馗図」の模写に「明和三丙戌歳蘭慶堂直武写之」と署名してあるが、是は「花下美人」の額と同じ年代に当る。」と記されている。一蝶の「鍾馗図」とされるのが、図2のことであろう。なお、現存する「画稿及び模写などの一束」(個人蔵)には、複数の絵師の筆が混ざっていて、中には「明和八辛卯年夏四月 亥日玉川源直武雌雄図 写夫」という墨書がある鶏図などもある。現存作に直武の鶏図はないが、かつて存在した作品を写したものと思われる。本来、狩野派では、他派の、特に浮世絵の学習は厳禁だったはずであるが、秋田藩や角館では狩野派の縛りが江戸などより厳しくなかったのであろうか。ともあれ狩野派の絵師につき絵画の基礎を習得し、また、幅広いジャンルの絵を学んだことは後の蘭画の制作へとつながってゆく。2、小田野直武の印章について小田野直武の主な画号には、羽陽、玉川、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂があり、直武が用いる印章については、先行研究に詳しい(注5)。直武の印章の中で最も使用例が多いものが、『解体新書』の末文や「不忍池図」(秋田県立近代美術館蔵)などにも捺されている方印である〔図3〕。この印はこれまで「羽陽之印」と読まれてきたが、正― 573 ―― 573 ―

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