しくは「羽陽之人」と考えられる。四文字目は「印」字の右側のつくりが省略されているのではなく、「人」字にかざりがついたものであろう。意味としても「羽陽之人」(出羽の国の人)のほうが通るように思われる。3、小田野直武と佐竹曙山の関係をめぐって最後に秋田蘭画のキーパーソンである直武と曙山の関係についてみてゆこう。秋田蘭画の発端は、安永2年(1773)に秋田藩が阿仁銅山開発のため平賀源内と吉田利兵衛を招聘したことから語られることが多い。角館滞在中の源内が直武へ西洋画法を教授したという『日本洋画曙光』に載るエピソードは、近年芸術家伝説である可能性が示され、直武が源内と鉱山開発のため藩内をまわったという定説にも疑問が呈された(注6)。確かなことは、源内が久保田を発ち江戸へ戻った翌日に、直武が秋田藩から江戸行きを命じられたことである。役名は「源内手、産物他所取次役」(石井忠運日記)、「銅山方産物取立役」・「銅山方産物吟味役」(佐竹北家日記)とされ、期限は3年で1年に30両ずつ江戸か上方で受け取れることになっていた。出立前に直武は久保田へ赴くが、曙山との謁見は許されず、角館に戻って佐竹義躬に江戸詰めの挨拶をしてから出発した。派遣理由は諸説あるが、絵画修行のためという説や曙山が博物学研究のため源内のもとへ派遣したという説がある(後述の曙山の書状の中の派遣理由が当初から変わらないものであれば源内のもとで絵画修行のためとなる)。安永2年(1773)末から安永6年(1777)12月までの第一次江戸滞在時、直武は『解体新書』(安永3年8月刊)挿絵を描くなど、源内周辺で活動していたとされる。源内が蔵する舶載洋書や銅版画類、蘇州版画などを手がかりに源内や蘭学者の助力を得ながら西洋画法を学習していったようだ。源内の下では眼鏡絵も制作していたとされ、落款はないが直武筆といわれる「江ノ島図」(大和文華館蔵)・「新川酒蔵」(柴花江氏蔵)・「三つまたの景」(天理大学附属天理図書館蔵)などが現存する。初期の蘭画と考えられる作品には「獅子図」(個人蔵)のようにヨンストンといった洋書に基づくものがある。また、源内の知人には江戸に南蘋派を広めた宋紫石がいて、宋紫石から南蘋派の影響を受けたとされる。このような環境下で東西美術の技法が結びついた秋田蘭画が生み出されたと考えられているのだが、直武が生み出した蘭画法が周囲にどのように波及したのか、確たる資料はなく、直武と曙山の関係性もはっきりしていない。直武の第一次江戸滞在中、曙山は参勤交代で2度(安永3年4月~安永4年6月、安永5年5月~安永6年5月)、義躬は1度(安永4年6月~8月)江戸を訪れている。義躬が帰国する際には、― 574 ―― 574 ―
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