鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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直武は病身ながら面会に行き、深夜まで話をした上、オランダ文物を贈ったことが『佐竹北家日記』には記されており、親しい関係性が知られている。一方、曙山との交流は記録上ない。第一次江戸滞在時から直武と曙山は協力して蘭画を発展させたという説が定説だったが、近年は第一次江戸滞在時に直武は曙山と面会できる関係性はなかったという意見も出されていて研究者によって立場が異なり、現時点で断言は難しい。なお、『解体新書』が刊行されたとき曙山は江戸にいたことになるが、将軍にまで献上された『解体新書』を果たして曙山は目にしただろうか。直武の江戸派遣に曙山の強い意思が働いていたとすれば、直武初の大仕事である『解体新書』を見て、蘭学への関心がさらに高まったと考えたいところではある。安永6年(1777)末、直武は角館に戻り、佐竹北家に出仕し義躬に面会している。年明けにも直武は義躬のもとを訪れており、このような機会に直武から義躬への蘭画法の伝授があったともいわれている。一方で、佐竹北家の上役から直武は江戸での仕事ぶりを詰問されたという。安永7年(1778)2月、佐竹北家は直武の処遇を秋田藩に問うがすぐに結論が出ず、4月に「銅山方産物吟味役」の役名は消え、直武の江戸行きは、暇ごいで唐絵の修行に行ったものとされ、久保田への引越しを命じられた。そして、9月には「御側御小姓並」という身分で秋田藩に召し抱えられ、曙山の側近くに仕えることになったのである。この異動に関して、2009年に安永2年2月10日付の曙山の年寄宛の書状(秋田市立佐竹史料館蔵)が発見された。書状には、曙山が直武を近くにおきたいことや自由に会えないことへの不満、直武を江戸へ絵の修行のため派遣したこと、薩摩や安芸から直武の注文があることなどが記されている。本書状からも曙山の強い意志が働き直武の異動があったことがわかる。この書状より、直武の江戸派遣は絵画修行のため、という判断ができるが、そうなると「源内手、産物他所取次役」などの役名と合致しないようにも思える。江戸派遣の目的は、単純な絵画修行だけではなく、源内のもとで本草学を学び、博物図譜などに活かすことであって、その応用が秋田蘭画だったろうか。直武が御側御小姓並になった安永7年9月、曙山は日本初の西洋画論「画法綱領・画図理解」をまとめるが、これには直武の知識が活かされたとされる。記録上、直武が久保田に移った安永7年2月から7ヶ月後に成立しているが、この短期間で日本初の西洋画論を書きうるか。突飛なことではなく書きうるという説がある一方(注7)、8ヶ月は短すぎるのではという意見もある(注8)。やはりのこされた史料がないが、少なくとも安永7年以降、直武と曙山の関係は密になり、曙山の蘭画学習も深まっていったのは確かだろう。西洋銅版画に基づき蘭語印が捺される曙山の蘭画「湖上風景― 575 ―― 575 ―

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