鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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図」(秋田市立千秋美術館蔵)が表装されたのは安永7年7月である。安永7年10月に直武は曙山の参勤交代に伴って再び江戸へ向かうことになり、第二次江戸滞在となったが、2度目の江戸は長期間とはならなかった。安永8年(1779)11月21日、源内が人を殺めた咎で捕まり、翌月に獄死する。江戸を騒がした事件であったが、直武は源内が入牢する以前の11月上旬頃、秋田藩から突然に遠慮(謹慎)を命じられていた。遠慮の理由は、曙山の怒りを買ったという説や病が悪化したなどの説が唱えられている。12月に角館に帰郷した直武は、翌年に数え年32歳で没した。記録上では、直武と曙山の蜜月は、直武が角館から久保田に引っ越した安永7年2月10日(久保田へ出府『佐竹北家日記』)から安永8年11月(直武、遠慮申し付けられ江戸から角館へ)のあいだとなる。蘭画伝授期間はこの間だけだったのか、第一次江戸滞在時から直武と曙山は交流があったのか、更なる研究が俟たれるが、では、残された作品から2人の関係性をうかがえることはあるだろうか。直武の「蓮図」(神戸市立博物館蔵)と曙山の「紅蓮図」(秋田市立千秋美術館蔵)のように、主題や構図が共通するものもあるため、両者の作品は「秋田蘭画」として一括りにして語られることが多い。しかし、「不忍池図」〔図4〕(秋田県立近代美術館蔵)や「日本風景図」(三重県・照源寺蔵)のような直武が到達した現実の風景や実際の文物をとらえる静謐とした作品と、「松に唐鳥」〔図5〕(個人蔵)や「蝦蟇仙人図」(個人蔵)のような曙山の幻想性をたたえた作品の画風は異なると指摘される通り(注9)、2人の作品からみられる芸術性は目指す方向が異なるように思われる。おそらく蘭画の表層的な技法の伝授が直武から曙山にあったまでで、協力して絵画を制作していく、というかたちではなかったのではないだろうか。また、曙山には博物学を愛好する大名ネットワークがあったことも注目される(注10)。直武が用いない蘭語印も博物学大名のネットワークからの影響ではないかという説もある(注11)。また、「燕子花にハサミ図」(神戸市立博物館蔵)や「燕子花にナイフ図」(秋田市立千秋美術館蔵)のように、曙山には立花図と西洋道具のハサミとナイフの取り合わせた作品がのこされるが、これらは直武にないモチーフ・構図の作品であり、秋田蘭画に特徴的な奥行きのある遠景表現もなく、曙山独自の画境と考えられよう。ただ、直武と曙山の関係性が希薄というわけではなく、直武の蘭画制作の多くが曙山の発注と考えられ、「唐太宗・花鳥山水図」(秋田県立近代美術館蔵)など、曙山の大名としての立場が制作背景にある作品も少なくない。直武と秋田蘭画の代表作である「不忍池図」〔図4〕(秋田県立近代美術館蔵)も大名の床の間を飾るにふさわしい大画面である。本作の制作背景については様々な解釈がなされていて、それぞれの花― 576 ―― 576 ―

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