注⑴ 山本丈志「秋田蘭画・小田野直武をとりまくイメージ(1)(2)」『秋田美術』39・40号、秋田県立近代美術館、2003・2004年・今橋理子『秋田蘭画の近代─小田野直武「不忍池図」を読む』東京大学出版会、2009年・金子信久「江戸の洋風画─西洋画から広がる多彩な創作」『日本美の季節から本図は四季絵であり、また、草花の効能から女性の健康を祈るもので、佐竹家と島津家の婚礼祝いのために描かれたという説(注12)や、芍薬と不忍池に前漢時代の班婕妤と西湖が重ねられ、天明3年(1783)につくられた秋田藩邸の3階建ての楼閣のためという研究などがある(注13)。「不忍池図」について、本稿では芍薬が植えられた植木鉢に注目してみたい〔図6〕。この植木鉢は17世紀にジャカルタで制作された油彩画に描かれる鉢との類似から東南アジア製かともいわれてきた(注14)。本図の鉢は植えられている芍薬などに比べると写実性は決して高くはないが、花のような植物文が丁寧に表されていて、陶製の素焼きのようにみえる。このような形状は東南アジア製の鉢に相通じるところがあるが、例えば、琉球王国製の陶器にも似通った形状の鉢が見受けられる。本図の鉢のモデルが東南アジアか琉球王国か(もしくは国内や中国、朝鮮製なのか)、今後精査が必要であるが、ここで思い起こされるのが、曙山と薩摩藩主島津重豪の関係である。蘭癖大名で博物学を愛好した人物として知られる重豪と曙山は非常に深いつながりがあり、曙山から重豪へ直武の絵を贈る間柄であった。「唐太宗・花鳥山水図」はまさに曙山から重豪へ贈られた作品と考えられている。そして、島津家に関しては、慶長14年(1609)に琉球王国を征服し、中国との冊封関係を結んでいた琉球を通じて東アジアとのネットワークを有していたことが注目される。薩摩と琉球のつながりは、当時の文化に様々に影響を与えており、18世紀前半頃に京の公家のあいだで異国趣味の草花が愛好された際には、琉球産の植物や「中山花木図」という琉球植物を描いた絵画が、唐・異国的なものとして近衛家に島津家からもたらされるなどしていた(注15)。もし「不忍池図」に描かれる芍薬の鉢が東南アジアや琉球といった国外のものであるならば、そのモデルの鉢はどのように直武のもとへきただろうか。高い可能性として考えられるのは重豪から曙山へというルートであろう。「不忍池図」に描かれるひとつのモチーフを取り上げても、その背景には、秋田藩と薩摩藩の関係や当時の江戸文化の情報が多様に読み取れる。西洋美術や南蘋派との関係、文化史的背景等、秋田蘭画の内に込められている事柄のひとつひとつを解きほぐし、その実像を明らかにする試みが今後更に求められる(注16)。― 577 ―― 577 ―
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