〔佐竹本の位置─佐竹本の住吉図─〕い和歌に親しむ共同体で受容されており、伊藤氏の指摘する実在の人物に似せて描くことの公共性・社会性は、この和歌を中心とする共同体において発揮されたと考えられる。これに加え、「治承三十六人歌合絵」の模本を鎌倉時代に作成したことは、治承年間以降の歌人の和歌道精進のための営為とみなせ、その肖似的表現は後代の歌人が先代の歌人を規とするような古人尊崇による文化の連続性と関係することが想定される。また、実定が重保に対し障子絵に描かれることを望んだことについて、実定自身が人麿、貫之、公任と連綿する和歌圏への包摂を望んだと考えてもよいのではないだろうか(注17)。前節では治承年間の歌仙絵史料を読み直し、歌仙絵の始発を論じたが、13世紀中の歌仙絵へはどのように連絡しているだろうか。例えば、『明月記』天福元年(1233)8月12日条の「九条大納言殿撰、卅六人、令書其真影信実、被進隠岐、其事又取沙汰」(注18)からは九条基家撰『三十六人撰』には藤原信実の手により歌人の姿が描かれたことが知られ、歌人影と和歌が隠岐に配された後鳥羽院のために制作された意図が想定される。後鳥羽院自身も嘉禎年間にかけて、当代歌人と古い時代の歌人が番う架空の歌合の形式で『時代不同歌合』を編纂した。後鳥羽院の没するまでには「時代不同歌合絵」が成立したと考えられている(注19)。寺島恒世氏は配流後の後鳥羽院が要請した『遠島歌合』が「空間の隔たりを超えようとする」ものとし、それと対応する『時代不同歌合』は「時間の隔たりを超えようとするもの」と指摘しており(注20)、後述のとおり歌人影を伴う「時代不同歌合絵」の意図は、治承の『三十六人歌合』に歌人の姿を描く意図と共通していると考えられるだろう。さて、先掲した土屋氏の論考は、鎌倉時代中後期の三十六歌仙絵隆盛へのステップとして「時代不同歌合絵」があったと指摘する点で画期的である(注21)。事実現在は模本によって知られる「時代不同歌合絵」(京都国立博物館本「探幽縮図」のうち)〔図5〕の図様と「業兼本三十六歌仙絵」(個人蔵)〔図6〕の図様は類似が認められ、姿の知られない古い時代の歌仙図様の先後関係が認識できる。ただ、この指摘によって佐竹本の図様の意味やその様式について位置づけの難解さが再認識された。また、佐竹本の読みを難解にさせる要素の一つとして、下巻の冒頭に住吉大明神が描かれることが挙げられる(以下、佐竹本歌仙絵の住吉図を住吉断簡と略す)。住吉断簡の社景について、近世『蒹葭堂雑録』は「其光景古風にして、今の図とは違ひて奇らし」と論じる(注22)が、モチーフや構図、そして佐竹本下巻の冒頭に配される― 47 ―― 47 ―
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