鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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道路の交差点にあたる場所に一辺20mの八角形のスペースが出現することである。この隅切りは路面電車の走行を想定し施されたという実用的な性格を持つものの、そこに社会的なコミュニケーションを生むための広場のような公共スペースを発生させるという更なる機能も付加されていたというマルサー氏の指摘は非常に重要であり、長らくその名前すら忘れられていたサルダーの功績とその先見性とを改めて認識させられる情報であった。第二期  第一歩と基礎形成(PRIMEROS PASOS Y CONSOLIDACIÓN):都市拡張工事の初期から、それが一定の形を得るまでの時期(1860年~80年代)バルセロナの都市拡張工事は取り壊された市壁跡の広大なスペースの開発から始まる。ここでは、市壁跡地に建設された公共施設(バルセロナ大学、サン・アントニ市場など)の紹介にはじまり、山手から地中海に流れ込む小川の暗渠化(ランブラス通りなど)のプロセスなど具体的な都市開発の事例が紹介された。バルセロナの新たな都市開発は、景気対策を兼ねて開催された1888年バルセロナ万博の機会に一定の基礎が固められた。現在もバルセロナのランドマークとして立つコロンブスの塔の建設、コロン通りの整備などもこの万博の開催に合わせて推進されている。また、凱旋門やカフェレストラン館など、現在も残る初期ムダルニズマ建築の代表作も、この万博のために建設されたことも付け加えておく。都市開発の事例に併せて、止まることのない人口増加への対応策として建物一棟あたりの延床面積の増大を図るため1860年の条例改正により当初のサルダー案に定められていた階高制限が緩和されたことも紹介された。付言すれば、サルダーの当初プランにおいては各街区における建蔽率は約30%に抑えられ、残りのスペースは緑化され公共スペースとされるよう計画されていたが、1860年代半ばには既に推奨建蔽率は50%近くにまで増やされ、やがてその制限は土地の経済的な生産性を最大化しようと望む地権者たちの思惑により事実上無効化されてしまうに至る。ここに示されるのは、様々な利権が絡む都市開発におけるルールの策定とその運用の問題を考えるうえで、今もなお参照するに値する重要な事例である。第三期  美化(EMBELLECER):都市拡張工事が一段落し、都市美化への意識が高まりを見せた時期(1880年代後半~1920年代)この時期はアントニ・ガウディ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー、ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクというムダルニズマ建築の三大巨匠がデビューを― 593 ―― 593 ―

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