まずロダン作《青銅時代》について報告する。この作品はこれまでの先行研究において、彫刻家ロダンの経歴の幕開けを告げる作品の一つとして記念碑的に語られてきた。しかし同時に、男性モデルの身体を生々しく表現するそのリアリズムは、人体からの「型取り」を利用したことによってもたらされたのではないかと、19世紀当時物議を醸した作品としても認識されている。とりわけ先行研究においては、1877年1月の「ブリュッセル芸術・文学協会」における展示、その後の同年5月、パリのサロンにおける展示の際になされた批評が取り上げられ、この作品の「型取り」スキャンダルの起源が強調されてきた。例えば、《青銅時代》についての主要な研究の一つである『《青銅時代》のほうへ:ベルギーにおけるロダン』展カタログ(1997)では、この「型取り」スキャンダルについて、1877年1月29日の『レトワール・ベルジュ』(LʼÉtoile belge)誌の批評を取り上げ、「奇妙さ、生命感、人体からの型取りの問題」がここで初めて現れたとしている(注1)。そしてこのような《青銅時代》の造形的性格への言及は「後に続くあらゆる批評家たちの記したものにも再び見受けられることになる」のであり、「この芸術家を悲嘆に暮れさせたのちに、彼の名声の出発点となったのである」と述べている。また、19世紀における「型取り」を総合的に扱った展覧会である『肌の表面で:19世紀における型取り』展(2001)でも、《青銅時代》は新フィレンツェ派など同時代のリアリズムを有する彫刻とも関連づけられながら、1877年のサロンにおいて「型取り」のスキャンダルを巻き起こしたものとして扱われている(注2)。もちろん、この作品に対して「型取り」を利用したという批難があったということは全くの事実であり、それは残された批評からも確認できることである。しかし、同時代におけるそのような批評の実際の様相は、現在私たちが認識している《青銅時代》の「型取り」スキャンダルとは異なる性質のものであったのではないだろうか。現在、《青銅時代》において一般的に認められているスキャンダルの存在は、「型取り」を創造行為とは対極にある、非-芸術的な技法として美術史の周縁へ位置づけようとする機能を果たしている。とりわけ近代彫刻史における巨匠ロダンの、彫刻家としての最初の記念碑的な作品《青銅時代》において、このような「型取り」についての「スキャンダル」のイメージが絶えず喚起させられることは、私たちのこの技法への否定的な認識をより強固なものにしていると言うことができるだろう。しかしながら、現在当然のものとして受け入れられている《青銅時代》をめぐるこのような「型取り」の言説について、その起源はどういったものだったのか、そしてその後のロダン評価のなかでこのエピソードがどのように扱われていったのか、こういった単純な― 605 ―― 605 ―
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