疑問に応える研究はこれまで存在してこなかった。先の『《青銅時代》のほうへ』展カタログ(1997)では、《青銅時代》にまつわる当時の批評が「ロダンの名声の出発点となった」と記されているが、この表現をさらに発展的に考察し直すなら、《青銅時代》の「型取り」スキャンダルをめぐるその言説の起源と変遷を追うことによって、ロダンとその芸術の名声はどのように形成され、一方で近代美術史において「型取り」を非-芸術的な行為とみなす価値観がどのように強固なものとなっていったのかが明らかになるのではないだろうか。そのためまず報告者は、《青銅時代》における「型取り」のスキャンダルが実際はどのような様相を呈していたのか、当時の批評を網羅的に分析することによって、その実像を明らかにしようと試みた。この作業は以下の4つの段階を踏みながら目下、分析中である。①1877年1月ブリュッセルにおける展示の批評、②1877年5月パリ、サロンにおける批評、③1880年の国家買上げに際しての史料、④その後のロダン評価のなかでの《青銅時代》。今回の2ヶ月間の滞在は、主に①、②、④の調査・分析に充てられた。もちろん、本研究を完成させるためには更なる史料体の調査が必要になるが、今回、批評等の収集、分析を行っている過程で、興味深い事実も明らかになってきた。例えば、1877年5月のパリのサロンにおける批評であるが、現在40ほどの雑誌・新聞におけるサロン評を調べたところ、《青銅時代》について言及したものは2つのみであった。もちろん、サロン評については更なる網羅的な調査が必要であるが、このような事実は1月のブリュッセルにおける展示についても同様に当てはまるものであった。すなわち、《青銅時代》は1877年に初めて展示された際には、ほとんどの批評家からは取り上げられることがなく、これまで考えられている「型取り」スキャンダルは、わずかにこの作品に言及した批評の限られた言説をもとにしたものにすぎないのである。もちろんスキャンダルの起源となる言説の重要性を等閑視することはできないが、それ以上に、その後のロダン評価のなかでこの「型取り」スキャンダルについての言説が徐々に大きな存在となっていった、という道筋を想定することができるだろう。これを論証していくためには先の③、④の段階についての更なる分析が必要となってくる。加えて、このスキャンダルの起源として捉えられてきたブリュッセルの展示の際の1877年1月29日の『レトワール・ベルジュ』誌の批評であるが、この批評についてもまた再検討が必要である。この批評はすでに先行研究において引用されているが(注3)、その全文を確認するため、ブリュッセル王立図書館において調査を行った。先行研究において挙げられているこの批評の全文について遺漏はなかったが、しかしこ― 606 ―― 606 ―
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