ほぼ見分けることができた。そして結果として、印刷された区画や装飾記号類などを巧みに利用し、単に挿絵を施すのではなく、頁全体をデザインする意識があったことが確認された。以上のことから、本の著者であり、挿絵の発注者であるレオン・ド・ロニーからの一方的な注文ではなく、義松もまた挿絵を施すことに主体的に関与した可能性が浮上してくる。ジャポニスムを牽引したというその書物に主体的に関与したとなれば、かつて山本芳翠が『蜻蛉集』などでゴーチェなどと共同制作した事例と比肩する内容といえよう。より内容に即せば、和歌や俳句を義松なりに理解し、部分的にはロニーの指示があったにせよ、その景物に即した挿絵が付されている点に注意がひかれた。義松の教養の度合いは従来から研究の焦点のひとつだったが、ここでまた相応の教養があったと認めることのできる事例がひとつ増えたことになる。ただし、神話や中近世の故事を絵画化してはいるものの、それらが伝統的な構図等を引用できているかは、これからさらに検討が必要である。必ずしも伝統的なそれらを参照する必要もないかもしれないが、義松の学習課程、教養の度合いをはかるひとつの物差しとはなるはずだからである。その引用の度合いはともかくとして、いずれも精緻な描写であり、デッサンも大きく崩れることはなく、ロニーら発注者の意図をきちんと汲んだことだろう。この他に描写の中で注目すべきは、花鳥と花柳風俗のふたつの描写である。花鳥は非常に細かく、色の濃淡を意識して複数回筆を入れていることが今回の実見調査で判明した。あたりに鉛筆を使用した痕跡も認められず、理知的な構成とそれを可能にする技術力の高さを滞仏期にも義松が発揮していたことがここに証明された。また花柳風俗の描写が多い点には、ジャポニスムがはらむジェンダー的な様相、すなわち日本を女性性として位置づけ、性的なまなざしで見るという構造を露骨に示す性格としても注目される。この要素も踏まえつつ、本書の性格を考究することが今後の研究の焦点となろう。洋画家である義松が伝統的なモチーフや「日本」という風俗を、フランスの日本文学研究者らと共同して制作した本書は、複層的な意味を示すことは間違いないからだ。いずれにしても、研究の基礎となる技術的な知見を今回の調査研究で得られたことは、大きな前進といえる。さらにパリでは、オルセー美術館、ルーブル美術館を巡り、義松が実見したであろう作品、模写した可能性のある作家の作品などを探索した。義松が滞仏期のノートで言及するプリュードン《「正義」と「復習」に追われる罪》、ジャン・クーザン・ルーフィス《最後の審判》などの実作品、また模写したローザ・ボヌールの諸作を実見することができたのは大きな収穫だった。― 616 ―― 616 ―
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