エール=エティエンヌ・テオドール・ルソー(1812-1867)の仲介によってミレーに依頼されたものとされる。両著作には、サンシエ、ルソーとミレーとの手紙のやり取りが引用され、制作がどのように進行したかが伝えられている(注2)。制作に当たってミレーが指示を仰いだのはトレラという人物であり、この人物がバルビゾン村を訪れ、直接ミレーと話をしていたことが手紙に記述されている。サンシエの伝記には本作の図版は掲載されていないが、モロー=ネラトンには図版があり、さらに、注の中で、本作が車両に取り付けられた後の顛末を伝える、1914年のカルロ・ボッジによる論文に触れている(注3)。この論文は、モロー=ネラトン以前に本作と教皇の車両について触れ、図版も掲載した重要なものである。ただし、ここでやや込み入っている点が、ボッジは、まさしく本作の図版を載せながら、これが車両のための作品ではないと結んでいることである。ミレーは、本作以前に、現在ディジョン美術館が所蔵する別の聖母像《ロレットの聖母》〔図2〕を描いており、ボッジはこちらが車両のための作品であると推測している(注4)。結びにおいてこのような混同がみられるにせよ、この論文により、作品はある時点で車両からはずされ、イタリア人古物商のもとに約30年間保管され、売買されそうになっていたことが明らかにされている。また、掲載された図版が、本作の現在の形状とは異なり、上部が半円形になっている点〔図3〕、そして、本作が車両内の教皇のための礼拝室において、祈祷台の上にあったと推察されている点は非常に重要である。本作との同定はなされていない論文ながら、モロー=ネラトンはこれを引用しつつ、本作を教皇の車両のための作品として図版を掲載している。加えて、執筆時の1921年までに起こった事柄を補っている。すなわち、ボッジの論文を受けて、車両製作の指揮を執ったデュクロという技師の娘であるモリロ侯爵夫人が、作品を取り戻すべく働きかけを行ったというものである。モロー=ネラトンは、これにより、本作はヴァチカンに戻ったとしている(注5)。その後、明確な時期は不明だが、本作は再びヴァチカンを出た。小田急百貨店より山梨県都留市の(株)相川プレス工業が購入、1990年に山梨県立美術館に寄託し、2000年に寄贈、現在に至っている。ほかに車両と本作の両方に触れた研究としては、アルバート・ボイムの著書が挙げられる(注6)。車両の装飾にはミレーのほかにジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)が関わっていた(注7)。むしろジェロームの関わりの方がはるかに大きかった。ミレーは教皇の私的な場のための作品を1点描いたのみだが、ジェロームは外部・内部の装飾全体に携わっていた。ボイムは当時ジェロームの作品を実際に見たテオフィル・ゴーティエの文章を引用しつつ、車両製作が半公的な事業として、その後の― 67 ―― 67 ―
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