鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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相貌を示す。「無原罪の御宿り」のマリアが、上方ないし下方に視線を向け、胸の前で手を合わせる、あるいは両手を広げる、といった姿で描かれることが多いのに対し、本作のマリアは正面を向き、両手を胸の上でぐっと上下に重ね、左手はマントを掴んでいる。優美さを感じさせる姿とは言い難いが、特定の人物をモデルにしたことを思わせる。聖母の描写に対して、教皇が「描き方を分かっていない」と言ったというエピソードが残るが(注18)、1858年当時のミレーは、すでにパリからバルビゾン村に移住して8年が経ち、前年のサロンには《落穂拾い》(オルセー美術館蔵)を出品、自然とともに生きる人々をモチーフに制作を続けていた。現実のものに迫る描写は、人間にとどまらず、例えば頭上の星の冠や足下の蛇にも見ることができる。《ロレットの聖母》の星が記号的な五芒星であったのに対し、本作の星は輪郭がぼかされ、光っている状態が表現されている。また、蛇は、ミレーが手紙の中で言及しているとおり、マムシなどクサリヘビと総称される蛇を入手して描かれている。クサリヘビは体の網目模様が特徴であるが、本作の蛇にもこれをもとにしたと見られる縞模様が描き込まれている。これらの点からみて、本作は《ロレットの聖母》と類似した主題であるものの、その表現は大きく異なる作品であると言える。マリアのみならず周囲に描かれたモチーフも含め、自然主義的な描写を伝統的な主題に応用しており、教皇のための絵に自身の表現を反映させていると考えられる。このように聖なるものを写実的に描写することは、ミレーに限らず19世紀フランスの宗教画に見られる特徴とされ、本作もまた、そうした作例の一つと言えるだろう(注19)。4.ミレーへの依頼の背景最後に、ミレーがこの車両への作品制作を依頼された背景を考えてみたい。前述のとおりアルバート・ボイムは、政府によって贈られた車両が、その戦略の一例であるとしている。すなわち、アカデミックで公的な仕事を多数引き受けていたジェロームが、蒸気船や蒸気機関車という「新しい」主題を描き、急進的とみられることもあったミレーが「無原罪の御宿り」という「伝統的な」主題を描くという二人の画家の登用が、政府の新しい美術政策の反映と指摘している(注20)。19世紀後半のフランスにおいて鉄道が極めて重要な産業の骨子となっていく時に、車両が贈り物としてつくられたことは非常に重要であり、ボイムもそのことを的確に指摘しているが、本研究において見つかった、車両製作について記録された小冊子を改めてみてみたい。この冊子の最後の頁に関わった芸術家の名前が挙げられており、その中で、ジェロームとミレーが「peintres dʼhistoire 歴史画家」としてまとめて記載― 70 ―― 70 ―

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