鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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されているのである(注21)。ジェロームと同じく、ミレーも歴史画家のポール・ドラローシュ(1797-1856)のもとで学んだ時期があり、神話や宗教主題の作品をサロンに出品することもあったが、この当時は、すでに農村の人々や風景を描く画家として認知されていた。そのミレーが、「歴史画家」と呼称されることはあまり例のないことと言える。しかし「歴史画家」として登用されたとすれば、伝統的な主題を担当することの意味もやや違ったものとなるかもしれない。ミレーを「歴史画家」と書いた当時の批評などは未だ見つかっていないが、本作制作の前年の1857年に、ミレーは《落穂拾い》をサロンに出品、たとえば批評家のエドモン・アブーは「まるで宗教画のよう」と賛辞をおくった。カスタニャリやゴーティエもミレーの作品の中に見出される宗教性に言及してきたが(注22)、さらにアブーは著作において、ミレーをブーグローやラフォンといった、当時の歴史画家たちと同じ章の中で記述していた(注23)。章ごとに当代の画家を取り上げる批評において、5章のドラクロワとアングルから始まり、イポリット・フランドラン、ジェローム、ポール・ボードリーらに続き、9章にミレーらが登場する。ミレーをこうした画家と並ぶ存在として見る批評家の向きが、登用に何らかの影響を与えたのかもしれない。一方サンシエやモロー=ネラトンは、ルソーの計らいでミレーに仕事が依頼されたと述べている。ミレーに宛てた手紙からは、ルソーがトレラとのパイプを持っていたことをうかがわせるが、どういった関係か詳しくは分かっていない。また、ジェロームは1850年から56年の間、夏や秋にバルビゾン村に滞在し、1852年には二度ミレーを訪問していた(注24)。ルソーやジェロームといった画家たちの関わり、そしてミレーを「歴史画家」とする見方について、ミレーが登用された背景につながる資料を引き続き探し、精査することが必要である。おわりに本作は、何よりも教皇のための車両に設置する絵画として制作された。しかし、車両本体はヴァチカンにおくられたのち、現在はイタリア共和国に所蔵され、車両の製作当時の資料はフランスに残されている。そして本作そのものは日本に伝えられた。関連する情報もまた、個別に残されるに留まってきたと言える。本研究により、これらの情報が整理され、実際に車両内に設置された状況が明らかになった。1975年にグランパレで回顧展が開催され、ミレー研究は本格的に開始されたと言える。しかし、その当時本作はヴァチカンに所蔵されていると考えられており、出品されることはなく、年譜にも1858年の出来事は記述されていない。しかしこの展覧会図― 71 ―― 71 ―

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