⑧第二次世界大戦下におけるピエール・マティス画廊の役割─ヨーロッパとアメリカの美術交流を中心に─研 究 者:東京国立近代美術館 研究員 長 名 大 地1.はじめに本研究は、第二次世界大戦下のニューヨークにおけるピエール・マティス画廊の活動に注目し、ヨーロッパとアメリカの美術交流の場として果たした役割について考察するものである。ピエール・マティス(Pierre Matisse, 1900-1989)は、画家アンリ・マティスの二人目の息子として1900年6月13日に誕生した。当初、父親と同じように画家を目指していたが、作品の売買に関心を持つようになり、パリのGalerie Barbazanges-Hodebertで働いた後、ウォルター・パッチの勧めで1924年にニューヨークへと渡る。当時、モダンアートを扱う画廊や美術館が少ない中、ピエールは父マティスの展覧会の企画や、作品の売買を通して、徐々に画商としての地歩を固めていった。その後、画商のヴァレンタイン・デュウデンシング(Valentine Dudensing)と出会い、彼との間でヨーロッパの芸術家を担当する代理人としてパートナーシップを結ぶことになる。彼らが運営していたヴァレンタイン画廊では、ヨーロッパのモダンアートが精力的に紹介されることになった。しかし、1929年に始まった世界恐慌の煽りを受け、彼らのパートナーシップも終わりを告げる。デュウデンシングと袂を分かって間もない1931年11月、ピエールはニューヨークのフラー・ビル(東57丁目41番地)に一室を借り、自らの名を冠したピエール・マティス画廊を開廊している。その後、ビル内で画廊を移転させたものの、同じ建物の中で58年という長きにわたって画廊を続けた。彼が主に扱った画家として、ミロやシャガール、バルテュス、デュビュッフェ、ジャコメッティ、イヴ・タンギーなどが挙げられる(注1)。ピエール・マティス画廊は、数人の例外を除き、一貫してヨーロッパの芸術家を取り扱った。そのため、ニューヨークにおけるヨーロッパ美術の窓口のような役割を担っていた。そのような背景から、第二次世界大戦下にナチスの迫害から逃れるため、ヨーロッパから渡米した「亡命芸術家」にとって、同画廊は重要な拠点となった。このことについて、マティス親子の伝記を著したジョン・ラッセルは、以下のようにまとめている。連想によって、「亡命芸術家」について語られ始めたその瞬間から、その概念は― 77 ―― 77 ―
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