鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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顧客向けに作成されたと考えられる出品作家の略歴が書かれたタイピング原稿、ピエール・マティスによる「亡命芸術家」と題された草稿、1945年に展覧会カタログを再販する際に出品作家宛に送付した書面、同年にピエール・マティスの自宅で撮影された写真などが含まれている。その中で、出品作家の名前と出身地が書かれた書面の裏面に、画廊の間取り図〔図5、6〕が残されているものがある。ピエール・マティス画廊は、長方形の2つの部屋から構成されていたことで知られ、この間取り図の壁面部分に記された作家名は展示構成を裏付ける資料となる。間取り図内の上部の部屋ではタンギー、ベルマン、レジェ、モンドリアン、エルンストが、下部の部屋ではマッタ、マッソン、ブルトン、シャガール、チェリチェフ、オザンファン、セリグマンの作品が展示されたことがわかる。残念ながら、彫刻家のリプシッツと、ザッキンの名は記載がないため、展示箇所を特定することはできないが、絵画に限ってはシュルレアリスムと抽象による分類はなく、亡命芸術家という括りの中で混然一体とした配置になるよう配慮されていたことが窺える。では、続いて亡命芸術家に対して、当時どのような言説が存在していたか見ていきたい。3.亡命芸術家にまつわる当時の言説亡命芸術家に関する当時のアメリカで発行された雑誌や新聞等の資料を確認すると、ヨーロッパの第一線で活躍する芸術家の到来に歓喜する内容よりも、いかにして彼らを乗り越えて自国の美術を育むか、そして、来るべき世界の芸術の中心アメリカに備えるかが議論の中心となっていることが窺える。では以下、それらのテキストについて順を追って確認していきたい。まず亡命芸術家について書かれた最初期のテキストとして、1941年11月に発行された『デシジョン』誌に掲載された美術コレクターのシドニー・ジャニスによる「アメリカにパリ派到来」から見ていきたい。ここに、さまざまな地に生まれを持ち(フランス人、オランダ人、ドイツ人、チリ人)、共通の国際的関心を抱き、その才能をアメリカに移植している男たちがいる。〔中略〕ニューヨークは世界の芸術の中心地としてパリに取って代わりつつある。これは、当然、アメリカ全体がその本分を果たすことを意味する。(注8)ここでジャニスが「フランス人、オランダ人、ドイツ人、チリ人」と補足している作家は、この記事内で取り上げている4名の作家、レジェ、モンドリアン、エルンス― 80 ―― 80 ―

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