て、以下のように述べている。このように、典型例の中で、アメリカへのヨーロッパの穏やかな浸透が計画されている。提示されたアイディアの一つ一つが、我々にとっては新しいものである。各々の芸術家とともに、ヨーロッパ思想の断片も亡命者となっている(亡命させられている)。これらの断片をアメリカの生活に適合させることが次の課題となろう。(注15)フロストは亡命芸術家によってもたらされた思想をアメリカに適合させることが今後の課題であると述べている。これまで見てきたテキストでは、アメリカとヨーロッパは対比的に扱われていたが、ここではヨーロッパの成果をいかにアメリカに取り入れていくかに重点が置かれていることがわかる。これまで亡命芸術家を巡る様々な言説を確認してきた。いずれのテキストにも共通していたことは、亡命芸術家の到来という出来事が、フランスからアメリカへと移行しつつある美術の中心地の問題を意識させる出来事となっていたということである。そのため、亡命芸術家に関する一連の議論は、「ヨーロッパ(国際)」対「アメリカ(愛国)」という問題を提起し、ヨーロッパへの追従ではなく、アメリカ独自の美術を確立させる動きを推し進める一要因となったといえよう。4.おわりに本稿では、1942年にピエール・マティス画廊で開催された「亡命芸術家」展を巡り、同展の再構成を試みた上で、亡命芸術家の到来がアメリカにもたらした議論について確認してきた。展覧会の再構成を試みたことによって、この展覧会がシュルレアリスムと抽象という従来の枠組みではなく、亡命芸術家という一つのグループを提示する機会となったことが窺えた。また、当時の彼らに対する言説を通して、亡命芸術家の到来は、芸術の中心地がパリからニューヨークへと移行しつつある状況を実感させた一方で、今後のアメリカ美術の向かうべき道筋をヨーロッパ美術への追従ではなく、アメリカ独自の美術の確立へと向かう議論を引き起こしたということができる。このような文脈において、第二次世界大戦下におけるピエール・マティス画廊は、亡命芸術家の新天地での活動を支える拠点であったと同時に、「亡命芸術家」展というヨーロッパとアメリカの美術交流を実現させることによって、戦後のアメリカ美術が独自の美術へと進む端緒という役割を担っていたと考えることができるのである。― 84 ―― 84 ―
元のページ ../index.html#96