鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 88 ―― 88 ―⑨河鍋暁斎と明治初期博覧会─幕末明治の絵師と近代「美術」制度の関わり─研 究 者:九州歴史資料館 主任技師  日 野 綾 子はじめに河鍋暁斎(1831-1889)は、狩野派に学び、肉筆画や浮世絵、版本挿絵など多岐に渡る分野で活躍した、幕末明治期の絵師である。暁斎が生きたのは、約260年続いた江戸幕府が終焉を迎え、絵画史上最大の流派であった狩野派が解体を余儀なくされる一方で、近代以降の画家に大きな影響を与えることになる「展覧会」の制度が欧米より輸入されてきた時期であった。暁斎は、戯画などを多く描いていることもあり、権力に追従しない反骨の画家というイメージが強いが、政府やその関連団体が主導して開催された明治初期の博覧会・展覧会への暁斎の出品作を見れば、現在代表作と目されるような力作が多いことに気づかされる。そこで、暁斎が明治初期に博覧会に出品した作品と、関連作品、周辺資料を合わせて考え、暁斎が近代の新たな「美術」の制度にどのように関わっていったのかについて検討したい。本稿で取り上げるのは、明治14年(1881)3月1日から6月30日に東京上野で開催された、第二回内国勧業博覧会(以下、第二回内博)である。この博覧会を選択した理由は、暁斎が生涯で博覧会・展覧会に出品した作品(〔表〕参照)のうち、この博覧会に最大である4点(《姐巳蠆盆刑ヲ見ル図》、《蛇雉子ヲ巻ク図》〔現《花鳥図》〕、《国姓爺南洋島城中放火ノ図》、《枯木ニ烏ノ図》〔現《枯木寒鴉図》〕)を出品しており、さらにそのうち2点が現存しているからである。本稿ではまず、現存出品作である《花鳥図》〔図1〕と《枯木寒鴉図》〔図2〕について、作品調査と当時の文献や評価にもとづいて考察を行う。さらに、暁斎が下絵を描いたとされる第二回内博に出品された銅製置物や、会場を描いた錦絵など、関連作品を紹介する。これらを踏まえ、第二回内博に暁斎がどのような態度で向き合っていたのかを明らかにしたい。1 《花鳥図》第二回内博出品作のうちのひとつ、《花鳥図》(出品目録では《蛇雉子ヲ巻ク図》)は、現在東京国立博物館に所蔵される。縦102.4cm、横71.2cmの絹本著色の掛幅装で、落款・印章はない。明治24年(1891)刊行の『國華』24号には、本図の図版とともに「鹿島氏ノ所蔵」(暁斎と親しかった鹿嶋清兵衛のことか)との記載があるため、こののち何らかの経緯があって現在の所蔵となったのだろう。『國華』の図版の上下に見

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