鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 91 ―― 91 ―墨で全体の輪郭をとる。このとき、輪郭線などは描かず、面的に墨を配置しているようである。その上から、腹部の羽毛を、少し濃いめの墨で柔らかな質感を出しつつ、下の淡墨をやや残しながら塗る。とまり木の枝も、同程度の濃さの墨で節くれだった様子を表しつつ勢いをつけて描く。最後に、濃墨にて艶やかな羽、くちばし、目、足を表す。枝の部分には、水を含んだ筆で境界線をぼかしつつ、濃墨で小さい枝を描く。おそらくこのような過程を経て完成した本図は、全体としては伝統的な墨画の花鳥図という印象だが、鴉の図様は典型を引用したものではなく、実物の観察に即した形態把握が活かされた、写実的な趣がある。本図は、第二回内博で絵画としては最高賞である妙技二等賞を受賞した。河鍋暁斎記念美術館には、この時の賞状の写しと、メダルが残っている〔図7、8〕。それに加え、本図には暁斎の人物像を伝えるのに格好の逸話が残っている。飯島半十郎『河鍋暁斎翁伝』や、弟子であった英国人建築家ジョサイア・コンドルの著した『河鍋暁斎』(注7)に載っている逸話の内容をまとめると、暁斎は出品した本図に百円の売価をつけた。審査員が暁斎に鴉一羽を描いた絵にしては法外な値段ではないかと詰問したのに対し、暁斎は、これは単に鴉一羽の絵につけた値段ではなく、このような筆を揮えるようになった自分の長きにわたる研鑽修行への対価であると答えたという。本図はその価値を認めた菓子商榮太樓の主人、細田安兵衛により購入され、現在まで同店にて所蔵される。会期中の『東京日日新聞』にも、このことを伝える記事が確認できる(注8)。第二回内博後、暁斎の鴉は人気の画題となりよく求められ、作例も多く残るが、暁斎自身もそれを喜んだようで、鴉をモチーフにした印章を制作している。さらに、『河鍋暁斎翁伝』によれば、暁斎は、明治20年(1887)に亡き母を追悼するため沼津の日蓮宗本光寺の境内に建てた碑に、《枯木寒鴉図》の図様を刻したという。その理由は、暁斎の名が「明治十四年の博覧会に同図を画きしより洽く世人の知る所となりしをもて、其の紀念の為め」(注9)であり、これは亡き母の教育に基づくとの思いからであった。このように、本図は暁斎にとって思い入れの深い作品であったことが分かる。そして、暁斎と博覧会との関わりを考える上でも、本図は重要な示唆を与えてくれる。妙技二等賞を獲得した本図には、博覧会事務局などの審査評が残っている。まず、「第二回内国勧業博覧会審査評語」では、本図について、「一氣率成、警拔奇峭、些ノ装點ヲ費サス、神致活脱ニシテ、平生狂戯ノ風習ヲ撇却セリ。其妙技甚タ嘉賞ス可シ。」(注10)(句読点は筆者による)と評している。一見評価しているようだが、「平生狂戯ノ風習ヲ撇却セリ」という部分には、暁斎が普段描く戯画等を引き合いに出した皮

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