― 92 ―― 92 ―(1)銅製置物下絵肉が感じられる。さらに、「第二回内国勧業博覧会報告書」においては、「暁斎ハ、狩野洞白ノ門ニ出後チ、元明ノ畫風ヲ學ヒ、北宗ノ人物ニ長技ナリト自稱シ、一揮千紙ノ快筆ナリト雖モ、俗眼ヲ悦スモノ多ク、北宗ノ眞致ヲ了シ大雅ノ堂ニ上スヘキモノ鮮シ。獨リ此枯木栖鴉ノ幀ハ、較古法ノ 神ヲ掬シ、纔ニ一朶一鴉ノ墨痕ニ千鈞ノ力ラヲ含有シ、一美千醜ヲ掩ヒ、平常ノ面目ヲ洗換ス。爾來此筆跡ニ歩シテ正途ニ歸セハ、畫中ノ老彪ト稱スヘキモノナリ。」(注11)と、《枯木寒鴉図》を褒めながらも、一方で暁斎の普段の作風を「俗眼ヲ悦スモノ」「醜」などの言葉を用い貶している。暁斎は、明治3年(1870)に書画会で描いた戯画が原因で投獄されているが、この「俗眼ヲ悦スモノ」という表現も、おそらく暁斎がよく描いた戯画や狂画のことを指しており、明治政府の暁斎への反感が表れた評価と言えるだろう。3 ほかの関連作例―銅製置物下絵、錦絵暁斎は、先に述べた出品作のほかにも、第二回内博と関わる作例を残している。ひとつは、三精社が出品した、鋳金家の大島如雲が制作した銅製置物の下絵である。これについては、加美山史子氏の「河鍋暁斎と大島如雲作・銅製置物「俵藤太龍神図」について」(注12)に詳しいので、以下参考にして紹介する。下絵は、河鍋暁斎記念美術館所蔵のもの〔図9〕と、東京藝術大学所蔵のもの〔図10〕の二種類がある。暁斎記念美所蔵の下絵は、朱と墨で描かれ、上から紙を貼り付けて図様の修正をしている箇所が多く見られる。一方で、藝大所蔵の下絵は、現在掛軸に表装されており、図様は暁斎記念美のものより精緻に描き込まれ、修正も見られないことから、暁斎記念美の下絵より後の、置物の制作の際に参考にされたものと理解できる。大島如雲の制作した実際の銅製置物は、現在ジョン・ヤングコレクションに所蔵されており〔図11〕、暁斎の下絵と比較すると、龍神の冠や侍者の持つ扇の形などに相違点もあるが、全体の趣は共通している。出品にあたっては、管見の限り暁斎が下絵を描いたことは明示されていなかったようだが、当時の新聞では、本像について、「猩々暁斎の畫風あり」(注13)と紹介されている。このように工芸品の制作に画家が携わることは、江戸時代からこの時期においては珍しいことではなく、暁斎もそうした関わりをいくつも有していたことが指摘されている(注14)。この作品については、金三千七百五十円という高値がつけられていたことが、『第二回内国勧業博覧会列品図録 一』(注15)を見ると分かる。図録の巻頭に掲載されていることからは、注目度の高さも窺える。しかしながら、「第二回内国丰
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