鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 94 ―― 94 ―した丁寧な彩色がほかのモチーフにも行われたと考えると、制作の手間を推し量ることができる。また、本図に見られる鮮やかな顔料や金泥、金銀の切箔は、使用する絵具にそれなりのお金をかけたことを示している。こうしたことから考えると、暁斎がより制作の手間や費用がかかった《花鳥図》ではなく、一気呵成に仕上げた墨画である《枯木寒鴉図》に百円という法外の値をつけたのは、衆人の耳目を集める話題性を狙ったものでもあろうが、暁斎にとって国内で初の参加となる「博覧会」という制度を推し量る、暁斎なりの試金石でもあったように思われる。コンドルは自著にて、《枯木寒鴉図》の逸話の最後に、「審査員は画の修行をしたこともなければ鑑別力もないと彼(筆者註:暁斎のこと)はきめつけていたが、その後こうした審査官の指導のもとに絵画展が開かれる限り、彼は出品を謝絶するのが常であった」(注18)と述べている。第二回内博の《枯木寒鴉図》の高値に対する審査員の反応や作品への酷評が、暁斎に政府の関係する博覧会や展覧会への不信感を与えたのは間違いないだろう。ただ、こののちも、明治15年(1882)の第一回内国絵画共進会、明治16、17(1883、1884)年の巴里府日本美術縦覧会など、官設やその側面が強いいくつかの展覧会に暁斎は出品している(注19)。しかし、例えば《山姥図》(東京国立博物館所蔵)などを出品した巴里府日本美術縦覧会は、パリでの新画即売会の一面があったゆえ、第二回内博同様、自身の画名を広め、作品を多くの人に見てもらうという狙いがあったと考えられる(注20)。このように、冷静に展覧会、ひいては明治政府との距離を測りつつも、興味と、自身に得るものがあるとみえる場合であれば、作品を出品していたのだろう。そして出品の際には、自身の技術を惜しみなく注いで制作に取り組んだことは、現存する出品作が示してくれる通りである。第二回内国勧業博覧会は、近代に輸入された「展覧会」制度に対するこのような暁斎の態度を決定づける、重要な契機となった博覧会と言えるだろう。付記作品の調査にあたっては、河鍋暁斎記念美術館の河鍋楠美館長、加美山史子氏、榮太樓總本鋪の遠藤英子氏、東京国立博物館の沖松健次郎氏、東京藝術大学大学美術館の岡本明子氏より御高配を賜りました。末筆ながらここに記し、心より御礼申し上げます。

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