鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴ 飯島半十郎(虚心)『河鍋暁斎翁伝』(1902年以前、参照したのは2012年に河鍋暁斎記念美術館が出版した文庫版の93頁、223頁)、石川光明「暁斎と是真」(『東京美術学校校友会月報』第10巻第10号、1912年)― 95 ―― 95 ―⑵ 暁斎は、信州に慶応元年(1865)に門弟の杉本留吉とともに訪れている。伊豆は、明治3年(1870)に筆禍事件で捕まり翌年放免されてから、伊豆の修善寺温泉にて静養しているので、その時のことかと思われる。⑶ 「今茲ニ數輩ヲ倫選シ何レモ扁額二面ヲ畫カシメ以テ彼會莚ニ展列シテ我文墨ノ盛ナルト各家筆意之精巧ナルトヲ遠ク海外ニ輝サントス」(下線は筆者による)田中芳男、平山成信編『澳国博覧会参同紀要』1897年、15頁⑷ 前掲注⑶、15~16頁⑸ 暁斎にとって、写生とは、その場で見たままをスケッチするのではなく、生きた動物の動きを観察し記憶し、それを自由に描き出すことであった(参考:加美山史子「暁斎の「写生」と創造された絵画」「河鍋暁斎」展図録、兵庫県立博物館、2019年)。秋草と雉、蛇の写生は《花鳥図》の構想時期より先立っていたかもしれないが、暁斎が一度写生を試みたものは自由に描き出せたことを考えると、不自然ではない。⑹ ウィーン万博と《花鳥図》に見られる写実性、また動物の捕食という画題の関わりについては、拙稿「河鍋暁斎《花鳥図》についての一考察─ウィーン万国博覧会との関わりに着目して」(『アジア近代美術研究会会報 しるぱ』Vol. 3、アジア近代美術研究会、2018年)においても指摘した。⑺ ジョサイア・コンドル著、山口静一訳『河鍋暁斎』(岩波文庫、2006年)を参照。原著は1911⑻ 「〇猩々狂齋 博覧會の美術館中へ出品せし猩々狂齋翁が墨繪鴉の圖は、代價金百圓とは善價と云ふべきが、巳に賣買約定済となれり。買人は日本橋西河岸の菓子屋榮太樓氏なり。奇なる哉狂齋翁、妙なる哉榮太樓主人。」「雑報」『東京日日新聞』1881年5月17日(句読点は筆者による)。この記事の存在は、加美山史子「河鍋暁斎と大島如雲作・銅製置物「俵藤太龍神図」について」(『暁斎』90号、河鍋暁斎記念美術館、2006年)にて確認した。⑼ 前掲注⑴、飯島半十郎著作、145頁⑽ 「第二回内国勧業博覧会審査評語 下」内国勧業博覧会事務局、1882年、430頁⑾ 「第二回内国勧業博覧会報告書 第三区」農商務省博覧会掛、1883年5月11日、34頁(句読点⑿ 前掲注⑻、加美山氏論文⒀ 「博覧會の話し」『読売新聞』1881年3月9日⒁ 加美山史子「河鍋暁斎と明治の工芸家」「河鍋暁斎と江戸東京」展図録、江戸東京博物館、⒂ 佐々林信之助編・出版『第二回内国勧業博覧会列品図録 一』1881年⒃ 前掲注⑾、18頁⒄ 前掲注⑺、138頁⒅ 前掲注⑺、51頁⒆ 暁斎自身の出品はないが、弟子のコンドルや娘の暁辰(のちの暁翠)などは、明治17年の第二年に刊行されたPaintings and Studies by Kawanabé Kyōsai。は筆者による)1994年回内国絵画共進会や明治19年(1886)の東洋絵画共進会への出品を行っている。

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