― 107 ―― 107 ―(1)伝来について6.作品の伝来と制作背景本屏風についての記録は南畝の『七々集』に掲載された情報を最後に、その後の記録は見つかっておらず、作品の制作経緯や伝来については未詳である。伝来を考えるうえで本屏風から読み取れる情報としては、①歌右衛門が主題であること、②質の高い絵の具が潤沢に使用されていること、③南畝と豊国という当時では最も人気の高かった狂歌師、浮世絵師が制作を行っているということ、の三点が挙げられる。なお、主題の歌右衛門、絵師の豊国、賛を記した南畝が上方でも人気があったことから、本屏風は江戸だけでなく上方でも受け入れられる要素があったと考えられる。制作を依頼した人物としては、歌右衛門と関わりがあり(①)、豊富な資金をもち(②)、江戸の文化人と交流があった(③)人物という推測が可能となる。これらの条件を満たす者としては「歌右衛門の贔屓」が挙げられ、贔屓の中の誰かが本屏風の制作を依頼した可能性が考えられる。歌右衛門には大坂を中心に多くの贔屓がおり、有力な商人たちによって構成されていた。しかし、歌右衛門の贔屓についての資料からも本屏風についての記録は見つけることができず、制作に関わった贔屓を特定することは難しい状況である。他の手掛かりとしては、本屏風の現在の所蔵者から推測するという方法が考えられる。本屏風は現在、狩野派絵師の末裔の家に所蔵されている。そこで、その祖先にあたる狩野派の絵師「狩野秀水」について考察した。(2)狩野秀水と佐竹家本屏風が伝来している家は、秋田藩御絵師の狩野秀水求信(以下「秀水」)のご子孫にあたる。秀水は狩野派表絵師の一つである浅草猿屋町代地狩野分家の絵師・狩野秀水尊信の名跡を相続した人物で、実父はやはり秋田藩の絵師であった菅原洞旭富信、兄は同じく秋田藩の絵師であり、谷文晁の義弟でもあった鑑定家の菅原洞斎由之である。寛政十一年(1799)に秋田へ下向し、九代藩主である佐竹義和(注7、以下「義和」)に謁見したことから、江戸住みの御絵師として召し抱えられた。その後度々制作を依頼され、義和逝去の際には肖像画制作も行っており、秀水が義和に重用されていたことが窺える。秀水の作品については千秋文庫等にも所蔵されている。現在、所蔵者の元には本屏風の他に秀水が残した絵手本類が残っている(注8)。絵手本類の中には本屏風に関連する記録は見られず、屏風の伝来に関する資料は残されていない。よって所蔵者の元には作品のみが伝わっている状況であるが、少なくと
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