― 108 ―― 108 ―も現在の当主の祖父の代には本屏風が所蔵者の家に存在していたことが分かっている。(3)佐竹義和が屏風を依頼した可能性について(1)(2)の情報をもとに一つの仮説について検討をした。(1)で触れた本屏風を制作した者の条件から推測すると、資金力の面から秀水自身が南畝と豊国に制作を依頼したという可能性は低いと考えられる。一方、主君の義和であれば本屏風制作の資金を用意することも可能であったと思われ、義和が秀水に命じて本屏風を制作した可能性が考えられる。義和と歌右衛門の関係については、直接示すものは残されておらず、義和が歌右衛門の贔屓であったかどうかについては不明である。ただし秋田藩は主要産物であった米や銅の換金・代金前借のために大坂の商人とは取引があり、歌舞伎を好んだとされる大坂の商人との関わりを見いだすことはできる(注9)。また“江戸の文化人のネットワーク”という観点から考えた場合も、南畝は著書の『放歌集』に「狐拳のかたを融川法師のかける三幅対の絵に詩歌せよと、秋田の大守の求によりて」という記述を残しており、この「秋田の大守」は義和であることから、義和と南畝には直接の交遊があったことが窺える。また秋田藩の江戸留守居役には、戯作者であり歌舞伎解説書ともいえる『羽勘三台図会』を著した朋誠堂喜三二(平沢常富、文化10年5月没)がおり、そういった人物を介して義和は歌舞伎に関する情報を収集することは可能であったと考えられる。義和は屏風が完成する前と思われる文化十二年(1815)七月に秋田で没している。このため義和が屏風の注文主であった場合、屏風は注文主の手に渡ることはなかったと思われる。屏風は浮世絵であるという性格ゆえに、大名家で公に制作されたものとは考え難く、義和が依頼したにせよ、その制作は内密のものであったことが想像される。そのため、義和が没した際には実質的に屏風制作を行なっていた御絵師の秀水の手元に屏風が残ったと考えられ、秋田藩ではなく秀水家に屏風が伝来したことについての説明も可能となる。これらのことから、義和が屏風制作に関わったのではないかという一つの有力な仮説が浮上する。但し、それを裏付ける証拠資料は発見されておらず、伝来の経緯・制作の背景の解明は今後の課題といえる。結び本報告書では、本屏風に描かれた主題の舞踊「其九絵彩四季桜」、また描かれた画の豊国の画業における位置付けや同主題の錦絵との比較、南畝の狂歌、作品の伝来や
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