鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 116 ―― 116 ―くの芸術家たちの活動の場となった「日本国際美術展」と「現代日本美術展」に、実験的な作品を次々と出品しているという点である。「日本国際美術展」は、毎日新聞社が主催した日本初の国際美術展である。現代日本と海外の美術界を結びつける機会として1952年に第1回を開始、1953年以降は隔年で開催された。1954年からは同社主催で国内のみの選抜展である「現代日本美術展」が誕生し、読売アンデパンダン展と並ぶ大型の美術展として各々注目を集めた(注3)。戦後美術の潮流を象徴するように生まれた日本国際美術展と現代日本美術展に、小磯は第1回から第9回展まで、ほぼ欠かすことなく新作を発表している。小磯は日本国際美術展の第1回展に選抜されて以降、招待作家として第5回展まで出品を続けており、第6回展に招待作家の慣例が廃止されてからも、1967年まで本展での活動を続けた。選抜作家となったきっかけは日本国際美術展の先駆けとも言える同社主催の「美術団体連合展」に、小磯が所属していた新制作協会が加入していたためと推測される。同会からは、猪熊弦一郎や脇田和ら戦前から活躍した洋画家たちも多数出品し、なかには賞を受ける者もいた。すでに国内では、アンフォルメルの波をうけた抽象絵画が美術界を席巻しており、若手作家のみならず、小磯と同年代である作家も大きく作風を変えて制作に取り組んでいたのである。この頃の小磯の展覧会出品作を追うと、《働く人びと》を起点とした作風が、出品されるたびに少しずつ変化することがわかる。ここに、その傾向を出来る限り分類し、時期の順から三段階に分けてみよう。第一段階は、《働く人びと》や《麦刈り》と同様のテーマ―すなわち逞しい肉体表現、古代レリーフ調の浅い空間に立体物による背景描写を組み合わせた作品群である。これらは1950年代前半に集中しており、第1回日本国際美術展に出品された《人間の構図》もこの特徴を有している。第二段階の変化は、1957年頃に表れる。同年の第21回新制作展に出品された《室内》〔図8〕には、線や色面を強調した画面に裸婦が描かれているが、個人が特定できない顔立ちやデフォルメされた肉体は、小磯の女性像がその後モデルとしての個性を失っていく予兆を示している。前方に置かれた小さな裸婦は、おそらくデッサン人形をモチーフに描きこまれたものだが、モデルのポーズと共鳴し、人物と静物の境界線を曖昧なものとしている。このように人間性を排除していく、いわば人物像の“解体”が始まるのが1950年代後半以降であり、この時期を第二段階と定めた。小磯は第3回現代日本美術展(1958年)に出品した《家族》〔図9〕で大衆賞を受賞しているが、

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