鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 120 ―― 120 ―て捉えていく視点につながったと筆者は想定する。先述した《踊り子達》や《海水浴とビーチボール》は1960年の作とされてきたが、本研究によって、より細かく制作時期を特定できる可能性がある。何より第三段階の特徴である、分類し難く激しい作風の変遷は、小磯が新たな芸術運動を真摯に受け止め、模索を繰り返した軌跡と言えるのである。最後に、1964年の《静物》と同年に制作された《室内》〔図15〕を見ていこう。あえて塗り残しや色ムラを残し、モチーフの輪郭線を強調することで、女性像すらも画面を構成する形や線、色面の一部として捉えている。全てのフィギュアが正面を向いているように感じられ、激しい抽象絵画のように観る者に迫る勢いであるのを、画面下部の余白が、絵画としての距離と空間表現をかろうじて保っている。《室内》には、小磯自身が本作を納得のいく完成作としたことを示すサインが記されている。小磯は“抽象の時代”においても、自身の表現に結果を示しながら着実に画業を歩んでいたのであり、そしてその結果の積み重ねが、1970年代の作風へとつながっていったのである。おわりに─抽象の時代がもたらしたもの小磯と交流のあった神戸の画家・石阪春生は、小磯が戦後漏らした本音について、次のように証言している。 僕が直接聞いた話では「僕(引用者注:小磯自身)の絵なんてね、美術史なんかには残らないと思うんですよ」って言うから「そうですかねぇ」って(注4)次々と芸術の在り方が変わりゆく激動の時代において、おそらく小磯以外にも、同じような想いを心に抱えた作家が幾人もいたのではないだろうか。戦後美術の様相をより明らかにするためには、小磯のように戦前手本のように高い評価を得ながら、社会や美意識が激変した戦後の新しい時代に挑戦した画家たちを再考することが、重要な意味を持つと考える。“抽象の時代”に様々な葛藤を繰り返し、晩年になって小磯がたどり着いたのは、1974年、東京の赤坂迎賓館のために制作された壁画《絵画》と《音楽》〔図16〕であった。かつて目指した優美な女性像や確かな空間表現の中には、しかしながら戦前には感じられなかった絵画世界と画家の別種の関係が感じられる。作品に表れる、フィギュアとして人間をとらえ、自分の理想的空間、理想的な位置に並べて離れた場所か

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