鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 126 ―― 126 ―ロックスの文字作品の特性について、アメリカのコンセプチュアル・アートとの比較において考察する。1 先行研究の整理と問題の提示これまで高松研究では、文字、ゼロックスコピー、複製メディアといった制作手法や作品の外観上の類似性において、高松とアメリカのコンセプチュアル・アートとの関連性の指摘がすでに行われている。真武真喜子(2004)は、高松の作品全体を彼のドローイングを参照しながら「単体」と「複合体」の両シリーズの展開として捉えるとともに、アメリカのコンセプチュアル・アートやミニマル・アートとの比較・検討を行なっている。この研究において着目したい点は、高松の文字作品とダン・グレアムの作品との関連性についてである。真武は次のように述べている。「グレアムは視覚詩という形式で、一連の文字や数字の作品を制作している。高松の数字や文字の作品も一種の視覚詩と呼ぶことも可能であろう。《日本語の文字》《英語の単語》はもちろんのこと、《THE STORY》も、同等に位置づけられる」(注1)。また真武は、グレアムがそうした作品を雑誌などの印刷媒体を通して発表したことと、高松が同様に印刷媒体やゼロックスコピーなどの複製メディアに関心を示したこととを並行的に捉えてもいる(注2)。神山亮子(2002)は、高松の《日本語の文字》、《英語の単語》と、ジョセフ・コスースの《一つと三つの椅子》及び《Four Words Four Colors》とを比較し検討している。神山はそこで、コスースの特に後者の作品は高松の両作品により近いことを指摘し、「指示するものと指示されるものとの関係を視覚化し、現実性と概念を一元化する志向」を備えている点において両者は共通していると述べている(注3)。ただし、高松の作品が「自己同一性の厳格な追及となっている」(注4)点が両者の作品における重要な違いである。また神山(2005)は、1970年代初頭の日本のゼログラフィー・アートを主題とする研究において、アメリカのコンセプチュアル・アートにおけるゼロックスコピーの使用と日本のそれとの関連性を示している。そこでは、美術批評家の藤枝晃雄が『GRAPHICATION』の1970年5月号において「ゼロックス・ブック」を批評したことが紹介されており(注5)、後述するようにこのことはアメリカのコンセプチュアル・アートと高松のゼロックス作品との接点を考える上で重要なものである。そして神山は、同号に掲載された5人のうち3人のゼロックス作品(高松次郎、田中信太朗、吉田克郎)と、それとは異なる機会に発表されたゼロックス作品(河口龍夫、野村仁、

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