鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 2 ―― 2 ―本稿では調査で得た新知見を報告する。シンガポールについては、画家の使命は民衆への美術趣味の普及にあるとして「民衆芸術家」を以て自任した矢崎の行動に焦点をあて(注4)、インドネシアの部分では、スジョヨノへの感化を中心に述べることとする。加えて、双方の地にパステル画会が存在したことも付記したい。2 シンガポールでの個展開催と作品寄贈矢崎は都合3回、シンガポールに長期滞在している。そのうちの初回である大正11年(1922)はインド各地を約2年間にわたって写生したあと、ロンドンへ向かう前に立ち寄ったもので、2~3箇月間の滞在であった。当地は「五・四運動」の混乱から落ち着きを取り戻しつつも、不況にあえぐ時代であった(注5)。そういった社会情勢の中、『南洋日日新聞』社長の古藤秀三から(注6)「植民地生活に人間らしい真実の情味を味わう機会をつくりたい」と、個展の開催を依頼された。矢崎はその趣旨に感じ入り、快諾した。そして、同紙肝煎の「矢崎千代二画伯展覧会」が開会すると(注7)、会場を埋め尽くす365点もの作品に人々は驚き、熱狂した。会期を一日延長するという盛況ぶりが次のように報道されている(注8)。 最初一、二日の間は、まだ一般外人側に知られなかったので(注9)、四、五組の支那学生の団体入場があったくらいであったが、その後欧州人、殊に支那人の入場者頗る多く、毎日千余の入場者が引きも切らず、殊に昨五日は開会最後の公休日だったので、それらの外人及び庫グダン路側の人々(下線筆者)の入場者で会場は大賑わい。趣味の人が殺到して売約の赤札が凄まじい勢いでベタベタと貼られてしまう。実に予想外の大成功である。(略)ここに記された客層の捉え方に着目すると、外国人と邦人に分けるだけでなく、邦人の中に「庫グダン路側の人々」という別扱いがある。それは在留邦人がステレツとグダンに二分されていたためであった。ステレツはシンガポールに骨を埋めることも覚悟の上でその生活を築いてきた、いわば下町のような性格の地域、一方グダンは任期が2、3年の大企業エリート駐在員が勤務する町である(注10)。ステレツの人々が来るのは常のことながら、水と油のように性格が違う両者ともがやってきて、作品を購入したというのは、画期的なことであったと報じている(注11)。さらに特筆されているのは、多くの華人の学校が生徒を引率して訪れ、中には、生徒へのパステル画指導を熱心に依頼するところまで出てきたということである。そこ

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