鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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L.W.― 131 ―― 131 ―① 複写の方法、及び、その数量の件。② 渡すべき人の選考とその人数、及び、渡す方法とその数量の件。③ 渡すことに関しての所有者の件。④ 複写に使用した原稿や、複写されたものを、実行する人が保持するか否かの件。註2 この紙面に記された文章の解釈、及び、記された以外の問題については、   最終的には実行する人の判断に依ってください。このように条件が列記され、「最終的には実行する人の判断に依ってください」と、受け手にその裁量を委ねるかのような一文で締められている。条件の列記と受け手への判断の委譲。そこにはローレンス・ウィナーの「意図の宣言」(1968年)との構造的な類似性を認めることができる。ウィナーは次のように記している(注13)。1 芸術家は作品を構成するかもしれない。2 作品は製作されるかもしれない。3 作品は造られなくてもよい。 上記はどれも芸術家の意図と等しくまた一致しているが、条件に対する決定は受け手がそれを受ける際に行う。ただし《COPY》と「意図の宣言」には、最後の一文に関して一見同様でありながらも異なる点がみられる。高松の作品では「記された文章の解釈」以外の問題が受け手に委ねられている。つまり、受け手は列記された条件に従わなければならない。対してウィナーの「意図の宣言」では、条件は作家の意図と一致すると記されているものの、条件の解釈は受け手に譲渡されている。だがこのような違いがあるとはいえ、《COPY》は、コピーの方法と数、渡す人数の決定が受け手の任意であり、例えば鉛筆で書き写すなどの方法によってコピーが遂行されたり、無数のコピーとその所有者が生起する可能性を潜在させている。したがって、作り手にとって受け手の行為及びその結果物は予測不可能なものであり、この点において《COPY》と「意図の宣言」は共通性をもつ。そして両者では、条件について判断する受け手の数だけ種々様々なオリジナルが生産されることとなるだろう。以上

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