鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
148/688

― 136 ―― 136 ―⑬漆芸の近代化─六角紫水と絵画をめざす工芸─研 究 者:三重県立美術館 学芸員  髙 曽 由 子漆芸は、粘着性のある漆液を塗り重ねて加飾を行う技法である。この技法的特性から、明治中期より油彩や膠彩などの絵画技法との類似がたびたび指摘されてきた。幕末から明治初期には柴田是真が漆絵を試み、絵画と漆芸の分野で高く評価されたことはよく知られているが、その後の漆芸界において、漆芸家の絵画修錬の推奨、そして「絵画らしい」表現の追求から漆芸の芸術性を向上させようとする動きがあったことは広く知られていない。小文では、漆芸の近代化の過程の一つとして、漆芸家の「絵画」憧憬をとりあげ、漆芸家六角紫水を中心に、絵画への接近をはかることで技巧主義からの脱却、芸術性の向上に努めた漆芸家たちの試みを明らかにする。1.六角紫水「蒔繪は一種の繪畫なり」から「日本畫に對する西洋畫の如く、蒔絵も一種の繪畫である。と云ふことは、予が多年の持論である。或は研ぎ、或は磨くも、漆は畢竟金銀附着の用に供する材料たるに止まるもので、蒔繪は、即ち膠と油以外の塗料藝術であると信ずる。本阿彌光悦は、能書能畫の人であつた。尾形光琳も、柴田是真も、その能畫の力を以て、蒔畫に非凡の作を出したのである。即ち、素絹と器物とを擇ばず、膠によらず、油によらずして、所謂塗料芸術を恣まゝにしたのである。」(注1)これは1912年の『建築工藝叢誌』に掲載された六角紫水(1867-1950)の談話「蒔繪は一種の繪畫なり」の一節である。六角紫水は、東京美術学校の第一回生であり、小川松民、白山松哉ら江戸時代生まれの名工に学びながら、岡倉覚三の近代美術教育を受けたパイオニア世代の漆芸家である。在学中より校長岡倉覚三を慕い、卒業後は作品制作のみならず、古社寺保存会、日本美術院、ボストン美術館で文化財修復や漆工史研究に業績を挙げた。1925年には東京美術学校漆工科教授、1928年より帝展工芸部審査員に就任し、昭和期には工芸界の重鎮として指導的な役割を担ったことでも知られる。先の談話は紫水45歳の時のもので、紫水は「塗料芸術」という造語のもとで、粘性の高い漆液を塗り重ねて加飾を行う漆芸と、油彩や膠彩の類縁性を唱え、漆芸は一種

元のページ  ../index.html#148

このブックを見る