― 137 ―― 137 ―の「絵画」であると主張した。そして、本阿弥光悦、尾形光琳、柴田是真の例を挙げ、絵を描くことができる「能畫」の作家こそが、漆芸に於いても芸術性の高い表現を成したと説く。周知のことながら、当時から現在にいたるまで、漆芸は「絵画」とはみなされていない。90年代以降の制度論の進展は、現代の我々が用いる「美術」にまつわる分類が、明治期の日本における西欧からの「美術」概念の輸入に伴い形成されたものであることを示してきた。北澤憲昭氏の論を参照すれば、その形成においては視覚性が重視され、視覚芸術としての絵画、彫刻というジャンルの成立に従って、その下位ジャンルとして触覚性を持つ「工芸」という概念が生まれた(注2)。伝統的に食器や什器の加飾に用いられることが主であった漆芸は、明治中期には工芸の一分野として定着する。先の紫水の主張は、大正期という時代にこの絵画を頂点とする美術制度を前提として、漆芸の不遇を問題としたものであった。この「漆芸絵画論」は、後の代表的著作『東洋漆工史』(1932年)まで、形を変えながらも紫水の漆芸観の根底をなすものとして繰り返され、後の絵画的筆致を目指した作品群(末金鏤技法、楽浪漆器を範とした作品〔図1、2〕)の制作動機ともなっている。しかし、見方を変えれば、この論が漆芸の独自性を脅かす論でもあることは明らかだろう。漆芸と油彩や膠彩の類縁性を強調し、画家が手掛けた漆芸が優れるという紫水の論は、漆芸独自の領域を否定し、漆芸家を画家の下位に位置づける危険性を持つ。近代漆芸界の先駆者であり、当時すでに中堅作家であった紫水は、なぜこのような論を展開したのだろうか。紫水の生涯の業績については、これまで村野夏生氏、宮本真希子氏によってその詳細が明らかにされてきたが(注3)、漆芸観という観点からは詳しく論じられてこなかった。小論では、先行研究に同時代資料を加えて紫水の漆芸絵画論の形成を検証し、近代漆芸界における絵画憧憬の意義の考察を行う。最初に、着想のきっかけとして、紫水が20代前半より約10年を費やした色漆開発に注目し、この過程で紫水が既存画材より優れた素材として漆をとらえるようになったことを指摘する。次に漆芸界における「描く」ことの意義について検証し、明治期には重視されるものが技巧から作者の内面表現へと変わる中で、図案や絵画を自ら描く事ができる「描ける漆芸家」が登場していたことを示す。
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