― 3 ―― 3 ―で矢崎は、邦人、華人を問わず学校や公共団体、また人が集まるところとして理髪店へも作品を寄贈することにした。「児童教育には知育よりも、徳育よりも、体育よりも、むしろ美育が一番肝要なものだと思う。(略)私の主義として度々言うことだが、芸術は貴族や富豪の玩弄物ではない。決してそんな浮つ調子なものでなく、芸術家の使命は社会的に深刻なものだ」と寄贈の意図を語っている(注12)。本調査で明確になったのは、華人の学校への寄贈経緯である。スクラップブックには、寄贈先の15の学校名が記載され(注13)、受け渡し完了印を押した書類が貼られていた〔図6〕。姚梦桐氏(注14)によれば、当時各学校は熱心に美術愛好家を育てており、書画の好きな学生が生まれつつある時代であった(注15)。とはいえ、誰か仲介をするものがないと正式な作品寄贈は難しく、これだけの学校と連絡をとっているのは不思議だと指摘を受けた。そこでさらに資料にあたると、新國民日報社(注16)の名刺に「茲収到 矢崎千代二付精通神 大交 風景画鏡一面 謹此道謝 六月十五日 謝文進」と墨書されたものが見つかった。それは「精通神」より、矢崎千代二の風景画を『新國民日報』社長の謝文進が受け取ったことを示すものであった〔図7〕。「精通神」とは、在留日本人医師の西村竹四郎(注17)の医院の名前であることが判明し、華人の学校への作品寄贈の経緯が見えた。西村と矢崎はパステル画の制作を通じて懇意になっており(注18)、華人の生活や学校の状況をよく知る西村が、寄贈の手はずを整えたと考えられる。また、寄贈目録の筆跡は、謝文進であるとみられる。排日運動や不況下という政治的、社会的な緊張を伴う中、医者、教育者、新聞記者という知識層の繋がりによって華人の学校への作品寄贈が実現したことは、矢崎にとって「民衆芸術家」という使命と、自分の作品が放ちうる公共的な意義が契合する機会となったと考える。その後、矢崎はどこの国に行っても夥しい数の作品を出陳した個展を開催し、非常な安価で作品を売り、寄贈している。シンガポールでの個展を機に、人種・国籍・思想・境遇などを問わず、出会う人々全てを指す「民衆」への関心を深めたことは確かであろう。3 現地の若き画家とともに描いたインドネシア本調査において、作品の年記に該当する1934年発行分の『爪ジャワ哇日報』(注19)の閲覧が叶ったことにより、今まで不明であった矢崎の動向を掴むことができた。新聞情報による主な出来事を〔表1〕にまとめた。本航海は、往復とも石原汽船を利用している(注20)。昭和9年(1934)2月21日に神戸港を出帆し、セレベス島(現在のス
元のページ ../index.html#15