鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
150/688

― 138 ―― 138 ―2.六角紫水の色漆開発─「絵画」に参入する漆1889年に東京美術学校に入学した紫水は、1年半の予科を経て、15人の同級生のうちただ一人漆工部に進学した。色漆の開発はこの後に始められたが、晩年に執筆された回顧文(注4)(以下「回顧文」)において、紫水は経緯を以下のように述べている。「本来は画をやつて行きたかつたのが、貧乏であつたのと、物好きの性質のために、漆の方に入る人がないから、是非入る様に、卒業は保証してやると、小川松民先生から薦められたために漆の方に来てしまつたのである。漆は、当時は蒔絵〵〳と云ふが、蒔絵ばかりでもあるまい。漆で画を描くことが出来ない筈はないと考えてゐたが、色々の事が分つてくると漆は色が出来ない。昔からの品物を見せて貰ふと、変つたものはないのである。(中略)そのうちに私はこう云ふ事を考へた。色の漆で、色々の画も出来るに相違ない。」紫水は、教授の小川松民の勧誘を受けて漆工部に進んだ。生家は農家であり、学校入学後も予科までは日本画を学んでいた紫水は、23歳にして初めて漆芸に取り組むこととなり、そこで漆の色が伝統的に5色(朱、黒、茶、黄、緑)に限られることを知る。絵画への未練、「蒔絵ばかり」の漆芸界への疑義を背景に、漆で絵を描くことを目的として、色漆の開発は始められた。開発は独学で行われ、具体的には、顔料を混ぜるための基本色である白色の漆の開発に力が注がれた(注5)。このころ色漆開発は一種の流行を迎えており、複数の研究者が開発を競っていたが、紫水は理学者の吉田彦六郎、同窓の漆芸家磯矢完山とともに「日進塗料工場」を設立すると、1901年はこの工場で念願の紫色漆を実現した。まもなく成果は公表され、鮮やかな色漆は新聞や美術雑誌にとりあげられて注目を集めた。開発成功後の紫水は、当初の目的通り、早速漆絵に取り組んだ。開発の記念に制作された漆絵《彩漆杜若の図》〔図3〕は、金地に杜若を鮮やかな紫色漆で描いており、色の濃淡やぼかしなど絵画的な表現をみごとに実現している。また、作例は現存しないものの、複数の漆絵が美術展覧会などに出品された〔表1〕。注目すべきは、このころの紫水がすでに膠や油に対抗する画材として漆を打ち出そうとしていたことだろう。1902年に紫水に取材した新聞は、色漆開発の目的が「不朽質絵画」なるものにあることを報じている。

元のページ  ../index.html#150

このブックを見る